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第4章  人生・哲学






   林棲期(りんせいき)に思う
   仏教では、生きることは苦である・・と教えます。
   俗世間を見渡しても、某国の独裁者、政治的軋轢(あつれき)が絶えない世の中、
   はたまた、個々人でも生きることに疲れた人たち、絶望の淵にあえぐ人々、
   法を犯し人生を棒に振る若者、或いは大金持ちになり富と名誉を手に入れても尚、
   幸福感を味わえずに悶々と日々暮らしている人・・
   皆生きることが苦しそうです。なぜ苦しいのでしょうか??
   やはり陳腐な言い方ですが、自我・・すなわち
   「自分の人生を自分のためだけに生きている」からではないでしょうか。
   それでは苦しみからの解放は「その逆」の生き方をすれば良いのではないか・・
   言い換えれば、「人生を他人の為に生きることができるとそれは、自分の喜び」になるのでしょう。
   仏教ではその処方箋としては、「自我からの解放」により、
   「苦」からの解脱が唯一の方法であると示します。
   己を捨てよ、こだわりを解き放て!!
   そしてその方向は厳しい自己鍛錬に向かいます。従い、悟りへの道は険しく果てしない道となります。
   しかし、もっと分かりやすく優しく俗世間的な方法も提示しています。
   すなわち、自利利他の精神や、喜捨、慈しみの心、
   つまり、「他人のために生きる」ことでの自我・没我です。
   我々凡夫には、苦からの解放は他人のために生きる・・・処方箋が分かりやすくて良いでしょう。
   若い時に、好き放題自分勝手に振る舞って、
   自分の人生をいい加減に(ハチャメチャに)生きてきた人間も、
   親になったことにより人間的に成長できるのは、子供と言う。 
   自分以外の人のために生きるという方向転換ができたからでしょう。
   また、商売の達人である諸先輩は、等しく「お客様本位」や「世間に貢献できる」経営を示唆し、
   人間として経営者としての生きる道を示してます。
   さらには、大金持ちとなり、個人としての人生の目的を物理的に120%達成した大事業家たちは、
   ほとんど例外なく、慈善事業や寄付や社会福祉にその生きがいを求めます。
   それも、自分のために生きてきた人生を、ある意味「反省」し、
   真の幸せは、「他人への奉仕」にあると悟った結果でしょう。
   僕は還暦を迎え、インド哲学で言う林棲期に入りました。(勝手に宣言しました)
   自分のため(社会的責任を全うするのも自分の義務であり
   それも自分のためとも言えます)に生きる時期を過ぎ、これからどうやって、
   人間の完成を目指す生き方をするかを「考える」時期が、林棲期であると思います。
   会社経営も自分以外の人たち(社員・お客様)の幸せを考えながら方向を定め、仕事以外の時間も
   他人の喜ぶ姿を見る自分を想像しながら生きていく・・・そんな生活が理想。
   これからの人生は益々楽しそうです。
   
   2016年9月5日



   20周年パーティを終えて
   2016年7月21日は、当社にとって、そして私自身にとって忘れられない日となりました。
   216名の参加による盛大なパーティでした。
   お礼の言葉は、どのように表現しても満足なものは見当たりません。
   本当に感謝・感謝、そして感謝です。
   タックトレーディング社長として、お客様、銀行各行、そして社員に深くお礼を申し上げます。
   さて・・・ では私は今後どのように生きたいか。。。。 
   ここでは私の人生観、および今後の人生への思いを述べたいと思います。
   私は思うところあって、2003年5月から随筆および商売雑感を書き始めたのですが、
   その頃は(そして今でも)、禅の思想に影響を受けながら、
   商売を含めた人生を歩んでいたように思います。
   そして13年が経過し、思想的には、禅から仏教全般、
   そしてお釈迦さまの原始仏教理念(テーラワーダ)までさかのぼり、
   今は中村天風の、「心身統一法」の根本原理であるインド哲学、が人生の指針となっております。
   インド哲学(中村天風を通じて・・という面が大きいですが)に触れてみると、・・これは
   一言では言い難いのですが、「宇宙エネルギー」に逆らわずに生きる。
   いや、人間は本来、宇宙エネルギーが備わっている(元来の気)のであるから、
   それを感じながら生きることが重要である・・ との教えと、今は理解しています。
   肉体本位の唯物論でもなく、精神・宗教依存の唯心論でもない、
   肉体も心も、宇宙の気・根本エネルギーから生じているので、それを片時も忘れるなと示しています。
   天風は、それを感じることができれば、自ずと健康、運気、が得られると教示し、
   人生の勝利者となれると教えます。
   禅も、結局はインド哲学=仏教の根本原理から派生しているのですから、
   心身統一を目指しているわけです。
   すなわち禅は、食べるときは食べることに集中せよ!歩くときは歩くことに集中、
   仕事するときは仕事に気を集中せよ!と教えます。
   肉体が食べている行為をしている最中に、心が全く別のこと・・例えば
   昨日の仕事を思っていては、心身分離で、精神の安定はありません。
   「心身統一」とは肉体に偏せず、心にも編せず、完全一致すること・・・です。
   なかなか難しいですが、今後も修行していきたいと思います。
   私は今年還暦です。
   パーティでマグネシウム協会加藤会長が「大還暦まで生きよ」と叱咤激励してくれました。
   そういう意味では、まだあと60年あります。
   ま、話半分にしても90歳までまだ30年。
   30年の時間はその「心身統一」を心がけて、仕事も趣味も、余暇も旅行も、学問するのも、
   楽しみたいと思っています。
   インド哲学には「林棲期」という考え方があります。
   五木寛之が、一時期その言葉を流行らせましたので、みなさんも聞いたことあるでしょう。
   家長として頑張って必死に働いた後、子供が成人し、生計の主たる担い手を離れたならば、
   人間は林に棲みなさい、と諭すのがインド哲学です。
   現代日本でいえば、還暦から75〜80歳くらいまでが林棲期でしょうか。
   林棲期には、家長の重責から解放され、「煩悩」や「執着」も少なくなって、
   修行(心身統一の)には適する時期という意味でしょう。
   会社の仕事は悩みの連続ですので、なかなか心身統一の修行はレヴェルが高まりません。
   ・・・高まりませんでした。これから20年、色々修行していきたいです。
   そして80を超えたら、インド哲学でいう、第四期、人生の締めくくりの遊行期になるでしょう。
   もう人生の大半の悩みを越えられて、自分が宇宙と一体化できるかもしれません。
   会社は、パーティでも申し上げた通り、後進に漸次、経営を移譲していく所存です。
   家長としての役目を果したと自分では思っております。
   今後は林棲期を 修行しながら(しかし楽しく有意義に)過ごします。
   今から楽しみです。
   あ・・・ だからといって完全引退というわけではありませんので、
   これからも酒を酌み交わしに行きますので、どうかお付き合いください。
   
   2016年7月27日、8月16日加筆



   つれづれなるままに
   お客様、中国のサプライアー、銀行の皆様方に支えられ、弊社も18年何とかやってこれました。
   今年は娘も嫁ぎ、家では女房と2人の生活が始まっております。
   がむしゃらに突っ走ってまいりましたが、ふと気が付くと齢57、
   お客様の部長さまも、銀行の支店長様も、すべて年下(しかも1回り)という現実で、
   馬齢を積み重ねている自分ですが、色々感慨にふける今日この頃です。
   最近読んだ本の中で、強く印象に残った言葉があります。
   それは、「あなたが生まれたとき、あなたは泣いて、周りは笑っていたでしょう。
   だから、あなたが死ぬときは、周りが泣いて、あなたが笑っているような人生を歩みなさい。」
   *ネイティブアメリカンの言葉・・・・です。
   これは考えさせられました。
   みんな誰でも必死に生きていますが、最近明石家さんまが言っていましたが、
   「必死に生きている」って自己矛盾というか、深い言葉で、
   必ず死ぬために生きている、というわけですね。
   小生も57歳で人生を確実に折り返しており、皆さんと同じようにいつかは死ぬわけですが、
   はたして死ぬときに「笑っている」ことができるか・・・
   みなさんどうですか??
   60までに、上記のネイティブアメリカンの言葉の意味を意識しながら、
   世間様に少しでも貢献できるように、自らを律してまいりたいと思います。
   
   2014年1月17日



   時間の有限性の認識について
   皆さんは「時間」というものに対しどのような認識をされているでしょうか?
   時間は人類の誕生以前から存在して、地球の誕生、
   さらに言えば宇宙の誕生以来何十億年の「時間」が経過し、この先も人類の滅亡、地球の寿命到来、
   宇宙の終焉(?)まで膨大な時間が経過するわけです。
   時間はその意味では、「人間の想像をはるかに超える」という意味で無限であります。
   ここでは、「我々の心の認識においての時間」を述べてみます。
   人生は客観的に考えると、80年、
   長生きしても100年程度のゴミみたいな時間の中に収まっています。
   その80年の間に、人は泣き、笑い、喜び、悲しみ、学び、働き、結婚し、子育てし、
   財産を蓄え、使い、病気になり、死んでいきますが、
   瞬間瞬間、人は時間にたいして「無限」であるという錯覚をしながら生きていっています。
   何をいいたいかというと、若い頃は「時間の有限性」などは心の片隅にも存在せず、
   自分の人生・仕事・夢・生きがいに向かって、「擬似的時間の無限性」の中で
   盲目的に突進して暮らしているのが殆どでしょう。それが裏返せば 若いという証拠です。
   時間の無限性は、欲望の無限性と表裏一体で、金銭・事業・出世・名誉等々に対して、
   制限を感じることなく、日々一生懸命です。
   「サラリーを倍にしたい」「社長になりたい」「工場を110個作りたい」「有名になりたい」
   数え上げたら無限です。
   その無限の願望が達成するのに必要な膨大な時間も無限と認識しています。
   ところが、人間30歳、40歳、50歳、そして60歳を迎えると、
   無限の欲望がいつしか急速にしぼみ、「諦観」とともに有限になっていきます。
   それは、私が考えるに、欲望が制御できたのではなく、自分の時間が有限であるとの、
   認識された瞬間に、欲望が出てこなくなることでかも知れません。
   私は現在54歳ですが、独立当初の38歳では、会社の発展のため、生活のため、
   xxxのため、猛烈に働きました。(多くの欲望・夢とともに)
   しかしながら、この随筆を書き始めたころ、2002年〜2003年に、
   時間の認識が無限50%有限50%に変化し、自分を見つめなおすきっかけとなり、
   今では時間の無限認識20%有限80%が、正直な心の中の時間認識です。
   皆さんはどうですか?いつ時間の有限性をお感じになりましたか?
   全く感じていない人は極めて若いか、人生に対して考えていないか、
   多忙すぎて見つめなおす余裕がないか・・・でしょう
   これは是非論ではありませんが、時間の有限性の認識は時には必要で、
   資源の有限性・自然の有限性などと同様に、破滅への猛進・盲進を防ぐ、
   心の作用でもあると思っています。
   時間の無限性の意識が永続すると、欲望の限界も認識されぬまま、
   歯止めが利かない永遠の盲進にピリオドを打てず、死ぬまで頑張り続けますが、
   その「頑張り」が人間社会にては、しばしば間違った方向へと進む場合があります。
   有限性の認識はやさしさを育て、人生の尊さを感じられる、
   一つのきっかけとなるのではないでしょうか?
   命の尊さ、資源・自然の大切さは、有限と分かったからこそ理解できると思っています。
   
   2011年3月10日



   プロとアマチュア
   皆さん(およ)そ生活するためには、仕事をして収入を確保しています。
   その意味では、皆さんが何らかの分野に於いて、プロフェッショナルなわけですが、
   では、真の意味のプロフェッショナルとは、アマチュアとは、定義としては何でしょうか?
   一般に言われている定義は簡単です。
   プロフェッショナルとは、「ある仕事・行為を営むことにより 主たる収入を得ていること」
   であり、アマチュアとは、「ある行為を行うにあたり対価を求めない、あるいは得ようとしないこと」
   であります。
   つまり、ある行為でお金をもらうか、お金を払うかがプロとアマチュアの違いです。
   では、お金をもらっている人は、どのような仕事でもプロと言えますでしょうか?
   野球選手、政治家、弁護士、教師、医者、実業家、牛丼屋の店員、タクシーの運転手、
   皆収入あるわけですが、では皆プロでしょうか?
   ここではちょっと言い方をを変えて、他人からの視点で再定義してみます。
   プロフェッショナルとは、「ある仕事・行為を営むことにより、
   世間・他人から対価を払いたいという、気持ちになるようなレヴェルに達した役務を提供できる人」
   アマチュアとは、「ある仕事・行為をするにあたり、世間・他人から対価を払いたいという、
   気持ちになるようなレヴェルに達していないので、
   自らその環境にたいして対価をはらって行為をすること」
   この再定義は、要するに、仕事とは何かということを言い換えたものですが、
   仕事とは、世間に対する奉仕でなければ、仕事とはいえないということです。
   人間は生きていると同時に、世間に生かされているわけで、
   生かされている以上、社会に貢献しなければならない、という義務も生じています。
   自分の役務の提供に対して、もし全く世間が、対価を払いたいという気持ちになっていなければ、
   それは、「自称プロ」であって、真のプロではないと思います。
   例としてミュージシャンを挙げます。
   プロミュージシャンは星の数ほどいますが、世間から、「この演奏・この作曲に対しては
   対価をはらって聴きたい・見たい」という感情や評価を得て、
   生計をたてることが可能なミュージシャンが、プロフェッショナルでしょう。
   冷徹な言い方をすれば、「自称プロ」のミュージシャンが、「俺はプロだ」と叫んでみても、
   世間が対価を払ってまで、聴きたいというレヴェルに達していなければ、
   それはプロとは呼べないのでしょう。
   我々の商社業界もそうでしょう。
   我々の役務・情報の提供が、もしお客様から「対価に値しない」、と評価されてしまえば、
   いくら自分は商社マンだと粋がってみても、真のプロではなく、
   たまたま商社という組織に従属している、単なる「給与取得者」であって、
   プロフェッショナルとはいえないと思います。
   上記は常に、私の仕事の自戒として、肝に銘じて働いているつもりですが、
   53歳の今でも、自分に問いかけながら仕事をしています。
   「自分は世間に役に立っているか?自分の役務提供は対価に値しているか?
   自分は本当のプロフェッショナルか?」皆さんは どうですか?
   
   2010年8月16日



   人間探求教学ー続き
   人間の最終願望が、結局、人間が生きているということの最終テーマになるわけです。
   それを追求する学問ー教学が、名前を変えて、宗教・哲学・思想信条、
   というカテゴリーになっているわけです。
   それを究明する角度の違いで、宗教・哲学・思想を説明できます。
   最終願望「私は、幸せな人生を送りたい。生きがいを感じながら一生を終えたい」
   あ)哲学とは
   上記最終願望を、人間の論理・言葉で説明する学問です。
   最終願望文章の意味を、非常に詳しく論理的に解明する学問です。
   「私は」を論理的に解明すると、己とは何か、存在とは、という存在論。
   「幸せ」とは何か、という幸福論。
   「人生」「生きがい」とは何か、という価値論。   
   「感じる」とは何か、という認識論。の総合的論理体系が哲学と言えます。
   い)宗教とは
   上記最終願望を、文章・論理を超えて、教えようとします。
   「私は」己の存在は無だとか、空という概念。
   「幸せ」真理は内面にあり、外部(識・色)にあらずという教え。
   「願望」をコントロールする煩悩解脱、帰依による絶対安心。
   「一生」「生きる」無常概念、生死は輪廻、刹那を説く。
   う)思想信条とは
   最終願望を達成するための実行論を、語り、共鳴する集団が、思想家に依存し、
   実践論として、世間に訴える教学という分類になるでしょう。
   文学は、最終願望の本質を、経験論や理想論を具象化して叙述する分野とも言えますし、
   歴史学は、最終願望を追い求めた過去の人間の良い行為・悪しき事実を検証する学問とも言えます。
   
   2010年5月20日



   悩むということ
   人間生きている以上、様々な悩みを抱えながら暮らしています。
   そして、「悩むこと」に悩んでいたり、「願望・希望」が現実と違うことに失望したり、
   悩んでいます。
   結果、どうやったら悩みから開放されるか、という「願望」を持ったりします。
   私も人間を53年以上やっていると、皆さんと同じように悩み・葛藤を持っていますが、
   最近思うに、「悩みはつまるところ、人間が生きるという願望がある限り常に付きまとう」
   と考えるにいたりました。
   皆さんが生きているということは、感情や希望・夢、悩み、つまり人間が人間である証拠とともに、
   生きているということです。
   恐らく、悩みや夢を突き詰めていくと、全て一つの文章に帰結するでしょう。
   すなわち、「私は、幸せな人生を送りたい。充実感や生きがいを感じながら、一生を終えたい」です。
   悩みとは、希望が達成されないことに対する「反対感情」の発露と言えます。
   全て自分の思い通りにことが進めば、悩まないということになります。
   でも、それは人間である以上、ありえませんので、悩むこととなります。
   出世できない、性格悪い、顔が悪い、禿げている、女性にもてない、結婚できない、
   上司とソリが合わない、仕事が忙しい、客先がそっけない、プロジェクトが上手くいかない、
   金がない、生活に張りがない、病気がちである、親の愛情が薄い、自分は認められていない、
   ・・・・数え上げれば キリがありません。
   そこで、ふと立ち止まって、自己観察してみてください。
   悩みは全て、自分の願望と表裏一体であることに気づいてください。
   そこが悩みを解消する出発点の思考回路です。
   例えば、「女性にもてない」という悩みであれば、思考回路を変更してみます。
   願望の帰結を考えましょう。
   「女性にもてる」−「性的満足を得られる」−「生活に活力が出てくる」−「充実感を味わえる」
   ということになって人間の最終願望である 「私は幸せな人生を送りたい」の言葉にたどり着きます。
   この最終願望が、人間の最大の望みであるが故に、それが解決できない人々の大半が、
   悩みを抱えることになるわけで、宗教・哲学・思想・人間心理学・文学・歴史・等々の、
   「人間探求教学」が生まれる素地となっているわけです。
   
   2010年5月19日



   大人とは何か
   大人と子供の違いを考えてみました。
   人間は脳幹という古代から感情・生理を(つかさど)る部分に加え、
   大脳皮質・前頭前野という「人間らしい理性」を持つ部分が発達してきました。
   人間誰しも感情があり、理性があるはずです。
   どちらが多くでるかで、大人(人格者)か、子供(感情のまま行動する未熟者)に分かれます。
   「あたりまえじゃないか〜〜」と仰られると思いますが、冷静に社会を俯瞰(ふかん)すると、
   大人は5%以下しか、世界中にいないのでないでしょうか?
   全世界、ほとんどの人間が子供でしょう。
   ここでいう子供とは、
   (1)感情で物事の優先順位を決める。好きなものはやるが、嫌いなものはやらない。
   (2)行動原理が、欲情と感情であるため、抑えが利かず、頭で分かっていても、行動が伴わない。
    社会的価値が分からない。貪欲が理性を完全に抑え込む。
   (3)先見性がない。こう行動すれば、このような結果になるであろうという事前思考が働かない。
   等々でしょうか。
   大人とは、
   (A)理性が働き、社会的重要性が認識できる。
     行動・発言は社会的重要性の優先順位から行うことができる。
   (B)社会的重要なものに対しては、たとえ自分が嫌いなことでも率先して行動できる。
   (C)自分が好きなことを諦めてでも、社会的義務を果たせる等々です。
   地震が担当地区で発生し、危機管理が必要なとき、たまたまゴルフに興じていた市長が、
   「とりあえずゴルフとその後のマージャンが終わってから市役所に行こう」と思考した場合は、
   それは子供の(1)ですから、全く大人とは言えません。
   「選挙に立候補したのは、社会を良くするという動機」であったが、実際は公共工事の汚職による、
   金銭への欲求に負けて、不正を繰り返す県知事、なども子供思考の(2)でしょう。
   本当に大人が少ない社会になってしまいました。
   金融危機も子供思考の(2)が優先された結果、自分の給料の拡大が全てで、
   それによる社会への悪影響などは完全に無視され、理性がない子供思考です。
   使命感・責任感あふれる産婦人科の医師などは、「大人の中の大人」でしょう。
   自分がゴルフに興じていても、携帯に電話で「出産準備お願いします」と来れば、
   子供の感情価値であるゴルフより、社会的価値である出産を優先し、
   ゴルフを諦め、病院に駆けつける崇高な医師もたくさんいます。
   ときには、人間の究極の欲である睡眠欲を捨ててでも、社会的価値を優先し、
   倒れるような医師もいます。
   そのような医師は大人すぎるので、今度は社会全体で救済しなければなりません。
   でなければ、益々大人が減っていきます。
   商社マンでも、常に大人でなければならないと思っています。
   人間は常に、感情と理性が対立していますが、何が社会的に重要かが見極められないような人間は、
   墓に入るまで子供であると思います。
   理性を育て、人の気持ちが分かるような人間になりたいと思っています。
   
   2009年5月7日



   欲と少欲、情と理
   20世紀の産業の発達は、人間の欲と情(感情)の膨大なエネルギーを、
   巧みに利用して成し遂げられた。
   貧困からの脱出は、人間の基本的欲求なので、人類は経済発展には誰も躊躇せずに、
   その解決に向かって突進してきました。
   その副産物として、環境破壊、温暖化が生まれましたが、この解決は非常にやっかいです。
   なぜなら、この解決には「人間の欲を制限」して、
   「感情を抑え、理性を働かせる」ことが必要だからです。
   大変それは人間にとって難しいのです。
   人間は、権力欲、金銭欲、物質的幸福欲、覇権欲、支配欲など膨大な欲の塊です。
   たった一つ、欲を辛うじて制限できているのは(今のところ)、核兵器の使用だけです。
   最後のわずかな理性が働いているため、人類の破滅が食い止められています。
   言い換えれば、それも「生存欲」が「支配欲」「戦争に駆り立てる怒りの感情」を
   抑えているとも言えましょう。
   斯様(かよう)に、現代社会は不安定な「人間の欲」と「人間の感情」の上に成り立っています。
   感情は我々の人生を支配しています。
   我々の行動原理も、実は、感情的に決断を下したあとで、
   衝動的な決断や行動をしばしば正当化するために、
   後から論理的理由を考えているに過ぎないのです。
   最も理性的であるはずの裁判所の判決も、そのような思考過程でしょう。
   感情とか欲そのものは「思考」されていません。自動反応です。感情は代替案などありません。
   つねに結論はひとつです。
   怒ったときは「怒った」だけで、同時に「笑った」り「安らいだり」できません。
   感情は最悪の場合は、パニックと激怒を伴います。
   最高の人格レヴェルであれば、崇高な落ち着きと自信、つまりは理想的な心理状態となります。
   平均的な人間は、その両極端のどこかの中間で生きておりますので、その後の論理的意識は、
   前頭前野にて感情を決定している原始的な大脳脳幹に、方向付けの修正を求めなければなりません。
   良く、カッとなってピストルを撃つ前に「10秒間」待ちなさいと言われます。
   もし10秒間待てればどんなに殺人事件が減ることでしょう。
   自動思考で、しかも莫大なエネルギーで人間を突き動かす感情は、一瞬のことです。
   それを自覚し、コントロールできれば、その人間は成功します。
   そして人類全てがそのような行動規範を実行すれば、平和が訪れますでしょう。
   理性的で、少欲。それが唯一の21世紀の行動原理でしょう。経済発展はもう止めましょう。
   さもないと温暖化という緩慢な自然破壊が人類を戦争に駆り立てることとなるでしょう。
   食料とエネルギーが不足する、すなわち「生存欲」が危機になったら、人間は何をするか分かりません。
   生存欲は最低の人間の欲でありだれも制限することはできないのですから。
   水がない、食料がない状況に人間が置かれたら、何でもしますよ。たぶん・・・
   
   2007年10月19日



   文明の発達と人間性の喪失
   現代社会は発達・発展して人間の幸福に貢献してきた・・・はずです。
   でも現実には、人間の疎外、人間性の喪失に「貢献」しているという皮肉な現状とも言えましょう。
   インターネットの発達は、通信の費用を劇的に削減し、
   地球の裏側の人々とも、瞬時に、コミュニケーションできるようになりました。
   これは自分の世界が広がったのでしょうか?
   手書きの手紙・郵便しかなかった昔(つい最近までですが)は、より頻繁に人と会っていたはずです。
   今は、パソコンの画面と向き合っている人々が多いです。
   チャット、メール、ゲームを忙しく行い、
   パソコン画面、携帯画面に一日の大半の時間をつぎ込んでいます。
   これは「会話」でしょうか。人間の交流として世界が広がったのでしょうか。
   必ずしもそうとは言えない状況でしょう。
   商売でも、昔はこう言われました。
   「商売したかったら、まず人と会え。会ったら飲め。できればゴルフでもして接待しろ」と・・・。
   これは、人間の交流には会うこと、会って会話することが不可欠との意味でしょう。
   電話では、かろうじて人の息づかい、会話の間、がありますので、人間性の伝達がある程度できます。
   メールですと、交流しているかどうかが分かりません。
   こうして随筆を今書いていても、どの人々がどのように受け取っているか分かりません。
   結局は「直接会って話さなければ」何も始まりません。
   現代社会で、人間はその「最終的には会って話す」時間がますます減っています。
   パソコンに80時間、携帯メールに3時間を費やしたら、寝る時間、食事、
   風呂などの時間を引けば(通勤時間も)、いったいどれくらいの時間が、
   「人と会う」ことに費やせるでしょうか?
   殆ど 残っていません。
   ましてや、ゲームに明け暮れていれば、極端な話、1時間も「会って話す」ことなしに、
   一日が終わっています。
   これが現代社会です。
   その生活を、生まれてから20年、30年続けていたら、どのような人格が形成されているでしょうか。
   たぶん、
   (1)一方的主張をするのはうまいが、相手の意見を受け入れ、対応する能力が育たない。
   (2)感情の起伏を抑えられない、キレ易い人格になる。
   (3)逆に、無感動になる。
   でしょう。
   この随筆も一方的です。
   飽くまでパソコンとかメールは人間の交流の「きっかけ」であるべきで、
   このコミュニケーション手段が「最終手段」となったら、人間性は喪失してしまうでしょう。
   
   2007年10月2日



   (はら)の人
   商社マン人生も、はや27年以上過ぎたわけであるが、
   その間、多くの人物に会い、多くの経験をし、多くの失敗・成功も体験してきました。
   が、まだ小生は「できそこない」であることを痛感しています。
   儲かった、損した、滑った転んだなどに一喜一憂し、小さなことに動揺し、不安になり、
   あらゆる経済情勢に思いを巡らし、落ち着くところ、いったいどこにあるのかという、
   (はら)の据わっていない未熟者です。
   やたらと前頭葉ばかり使い、脳ばかり疲弊させ、肚で接する方法にたどり着かない。
   従い、心の安定もない。これは文明化した現代人に共通する欠点かも知れないとも思います。
   物質文明的価値観では、人間は頭の回転が速く、機転が利き、動作がすばやく行動的であり、
   先見性があるのが価値ある人間とされて来ました。
   小生もそれが現代を生きる術であると思ってきました。
   だが「何か違う」。
   能率主義、立身出世・物質的繁栄、社会的成功は人間の本質的価値を見落としているのでしょう。
   それが、下記にて3〜4年ほど書いてきた要諦でもあります。
   江戸・明治には、社会的に「本質的人間の価値」を見抜く正気さがあった。
   元来、日本人は、頭が良いだけでは「小賢(こざか)しい」といい、
   技術だけ優れているのは「小器用」といい、あまり尊んではいない。
   つまり、「頭の人」より、「肚の人」を重んじていました。 
   「全ての瞬間、瞬間を、肚で生活する」ことが、人間が人間として「まとも」になる、
   最高の方法と知っていたのでしょう。
   過去の多くの大丈夫、釈迦・一休・白隠・中村天風・澤木興道などの教えに共通するのは、
   結局は「心の安定」をいかになし得るかの一点に尽きます。
   心の安定は、すなわち心の中心を下げることであります。
   「頭の人」は、のぼせ上がり重心が高すぎる。
   安定しない仕事でも、趣味でも、全てを「肚」に心を置けば、間違いないのではないでしょうか。
   仕事も力みすぎては、重心が頭とか肩にあり、硬直し、柔軟性がなくなります。
   すなわち(こだわ)る、囚われる。
   ゴルフでも欲がある(拘る)と上半身に力が入り、うまくいかない。
   腰で打つ・無心でスイングするといい結果が出ます。
   ジャズの演奏も、肩に力をいれず、腹式呼吸で自然体で吹くといい音色を出せ、
   素敵なメロディが出てきます。
   古来から綿々(めんめん)と伝わる日本の所謂「道」は全て、それを教えています。
   書道、茶道、弓道、剣道、柔道、全てが気を丹田に置かないと駄目。
   小生は今まで、坐禅、瞑想に「心の安定」を求めてきましたが、先人はそれも「間違いでない」が、
   それは「静中の工夫」であり、日常生活全て、
   すなわち「動中の工夫」がなければならないと教えています。
   白隠曰く、「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること、百千万倍」。
   坐禅だけでなく、日常の動作全てを修行と考えよ、と喝破しました。
   近代日本には(明治)、藤田霊斎、岡田虎二郎、肥田春充の3氏が、「動中の工夫」を教えています。
   最近の例では「佐賀のがばいばあちゃん」でしょう。あのばあちゃんはまさしく「肚の人」です。
   禅をまるで修行したかのような、綺羅星のごとく、すばらしい言葉が並んでいます。
   本来無一物、日日是好日と「全く同じ意味」のことを言っています。
   小生も丹田修養を心して、生きる指針にしていきたいと思います。
   
   2007年7月30日



   幸福論
   幸せとは何か、生きがいとは何か、これは人間の最大のテーマで「生きる」価値へのテーマです。
   是が、宗教、哲学、の主要問題といっても過言ではありません。
   「幸福論について語るのは、自分が幸福と思っていない人物が語るのである」と、
   精神医学者が述べていますが、ある意味当たっているかもしれません。
   しかし、釈迦も「生老病死」に「悩み」その解決を、心の探求に求めたわけですから、
   人間程度の差こそあれ、人生の一時期に「幸福とは何か」を思うことはあるはずでしょう。
   釈迦、キリストが到達した、究極の人類の心境は、アートマンとも言われ、
   マズローの「5段階欲求説」での、最後の段階の「自己実現」をも超越した、最終ステージでしょうが、
   その「最終ステージ」は、意外と今、ここにあるかも知れません。
   幸福とは何か、は簡単です。
   「幸福と感じている心に満たされている状態」です。
   どんなに物質的、金銭的、社会的に恵まれていても、その人が「幸福だ」と思わなければ、
   幸福ではありません。
   従い、幸福とは勝れて主観的問題です。
   では心とは何でしょうか?、状態とはどのようなものでしょうか?
   心は一般的に人間の意識、認識、感情と考えれれています。
   即ち前頭前野、大脳皮質で認識されているものが「心」とされていますが、
   実はそうでなく、脳幹に心が存在しているのでしょう。
   いや脳幹の心は所謂「心」でなく、人間の存在そのものの「実感」で、
   意識を超えたところで「人間脳が働いていない状態」でしょう。
   では、我々が持ちえる「幸福感」を実感できるためには、どうしたらいいでしょうか。
   繰り返しになりますが、幸福は言語脳、感情脳で「感じる」のでなく、
   自然脳(フェアリーブレイン)で「感じる」状態と言えましょう。
   つまり幸福、安心立命は、言語では表現できない「代物」で、
   究極の自然脳作用状態でしか味わえないでしょう。
   禅でも、初期仏教でも、ヨガでも、それを言語で伝えようとしていますが、
   結局は、みな禅も初期仏教も、「不立文字」と言ったり、「教外別伝」と言ったりしています。
   皆さん各々が実感(悟り)しなければならない種のものと教えています。
   欲による金銭、名誉、支配などが達成されても、一時は幸福感を味わえますが、
   なぜか「満たされない」思いにすぐ包まれてしまいます。
    「欲」が支配する大脳(前頭前野、辺縁系)による幸福感は、
   所詮結局、「物足りようの思い」でしかないでしょう。(澤木興道曰く)
   物(物質)足りる思いとは、金、出世、名声、などは勿論のこと。
   一見自然脳の幸福とも思える、煩悩をなくすことも含まれます。
   脳幹は、脳生理学的に、「爬虫類脳」とも呼ばれています。
   大脳辺縁系は、サルなども発達した感情脳で、人間脳として大脳がありますが、
   「生命体」として宇宙の存在としての自己は、その「爬虫類脳」に帰ることでしょう。
   純粋生命体としての自己を味わうことこそ、真の幸福、安心立命があると思います。
   仏教では、「本当の自分」を見つけることが、本当の幸福であると教えます。
   これは言い換えれば、本当の自分とは、
   上記「脳幹」だけの自分(意識を超えた自分)であるとも言えます。
   皆さんが、「自分は不幸だ」「自分は不満だ」と思っている「自分」は、上記の大脳であり、
   それは単なる「思考回路」に過ぎず、実は自分ではないのです。
   それを「気づいた」(SATIと言います)人間が、安心を得られると教えています。
   
   2006年6月12日、7月19日加筆、10月5日加筆、11月1日加筆



   現代文明の問題点について,価値観の不合理性について
   人は生きるために最低限度の生産行為、経済行為をしなければなりません。
   地球はつい最近まで資源再生産(エントロピーの循環)を可能とし、生態系を維持してこれました。
   ところが、現代の急激な経済発展は「生きるための最低限度」をはるかに超えており、
   事業欲、金銭欲、名誉欲に依存した資本主義の、
   「歯止めが利かない」発展の先にある「破滅」まで、予見できる状況であります。
   現代では、社会主義、共産主義の限界は露呈され、
   とりあえず、資本主義が、人間の「欲」をたくみに利用し、
   一見合理性を有していると思われておりますが、
   その価値観には、究極的には、「むなしさ」「無意味さ」を内包していると思います。
   経済発展は善とされていますが、無限の発展の先にあるものは「限界」であり、破滅です。
   経済成長は、実は「悪」ではないでしょうか。
   人口が増えないのに、消費を増大させても、何の意味があるのでしょうか。
   米国、中国、ロシアなどの大国は新聞記事をみるまでもなく、資源覇権を、
   「我をむき出しにして」追求しており、2006年12月にては、サハリン2プロジェクトでも、
   ロシアは「突然」自国資源の覇権を強引に取り戻し、エゴ丸出しです。
   中国も、自国の発展のみが関心事で、東シナ海利権、イランの核開発黙認での石油利権確保、
   米国はイラクをみるまでもなく武力に訴えてまで、資源を略奪する姿勢を崩しておりません。
   無限の欲、資本主義の「成れの果て」はこのようなカオスでしょうが、
   欲をベースに人間の生活ルールを設定した現代資本主義はある意味、当然の帰結でしょう。
   地球温暖化に見るまでもなく、資源再生産が不可能なまでにエントロピーを増大させ、
   京都議定書の1990年に比べ8%削減するためには、
   2004年では14%も削減しなければならない数字であり、まして、巨大消費国米国、
   及び、巨大生産国中国の両国が加盟しておらず、
   両国の「身勝手さ」も「破壊を助ける」結果となるでしょう。
   まさに、「欲」が「破滅」をもたらすことになり、石油枯渇による資源戦争が、
   回避されることを願って止みません。
   キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの「二元論」的世界観では、
   この問題に気づいた時にはすでに遅いでしょう。
   宇宙・地球資源と人間を二元対立させて、「征服」しても、それは自己破滅であることは明白です。
   「一元論」的仏教がその役割を果たさなければならない時期でしょう。
   テーラワーダ仏教は、「宗教」とは言えません。
   絶対的神の「命令」など、この世に存在しないと明言して、「自己の気付き」を「真理」と掲げて、
   ヴィパッサナーを、人間の心の最終解決としています。その概念として「一元論」があります。
   一元論とは、「宇宙と自己を一体化し、価値観を宇宙と同化させる」ことです。
   紀元前でも、鎌倉時代でも、昔であれば、どんなに消費文明に溺れていても、
   まず、「地球の限界」はなかったでしょうが、現代は「地球の限界」を見通せるほど、
   発展してしまいました。
   「欲」の無限の追求は、最終的には「むなしさ」が待っています。
   100億財産があっても、10人の(めかけ)をもっても、100のゴルフ会員権を得ても、
   最高級の外車を10台持っていても、10億の豪邸に住んでいても、結局、
   人間の最後の価値観は、「いかに生きたか」「いかに死すべきか」でしょう。
   20世紀的価値観(物質至上主義、経済発展至上主義)の修正が急務です。
   人間の叡智(えいち)に期待します。
   
   2004年11月15日、2005年9月6日加筆、2006年12月26日加筆



   人生の最大価値とは、人生とは
   先日、八王子片倉町にある「松門寺」にて座禅会に行ってきました。
   座禅をするのもはじめてですし、お寺に行くのも修学旅行や葬式を除いては、
   めったに行かないので、貴重な体験でした。
   常日頃、下記しているように、禅には興味あったので、座禅をすることにて、
   「何か糸口が分かれば」との思いもありました。
   1日2時間座禅をして、そのあと老師から正法眼蔵の講義もあり約3時間半を過ごしました。
   座っている間は「なにも考えないこと」を目指すのですが、足は痛くなるし、
   「痛い」という思いも「考える」ことですし、「とりあえず我慢しよう」と、
   「思う」ことも「考える」ことで、またボーとしていると「あ、今考えてないな」
   と「考えて」しまうし、仕事のことなどもふと頭に浮かぶことあり、
   そのときは、「いかん、無心無心」と思い直すと「また考える」といった具合です。
   しかし、総じて心は「穏やか」にはなるような気がします。
   毎月の座禅会は今後も続けるつもりです。
   「松門寺」の座禅会の紹介はホームページ www.shomonji.or.jpにて見れます。
   最近又、山田無文の本を読み返していますが(山田無文は鈴木大拙ほど難解ではありません)、
   彼の「座禅和讃講話」のなかでいっていることは、
   皆様も同意してくださるだろうと思いますので、ここに引用します。
   「私どもの社会生活は、それぞれ家庭をもち、子供までこしらえ、事業を営んで、
   楽しく面白く、ときには悲しい出来事もおりまぜて、とにかく毎日をにぎやかに生活しておりますが、
   なにか一抹の不安はないでしょうか。
   これでよいのかなというようなものたりなさ、さびしさがないでしょうか。
   忘れ難い魂の故郷がどこかにあって、一日も早く帰らねばならぬ両親が、
   胸を広げてまっておられるような焦燥感がないでしょうか。
   もしありましたらそれが、私は宗教心というものだと思います。」
   この解釈は胸にズーンと来ませんか。
   やはり、人生の最大価値は「安心立命」で24時間、365日を過ごせるかどうかだと思います。
   「一抹の不安」を持たずに一生を終えればどんなにか幸せでしょう。
   
   2004年5月14日、2004年6月28日加筆、2004年11月9日加筆



   すばらしい人間とは
   私は、毎朝近くの川沿いを犬と散歩(犬の散歩ではありません 微妙ですが)しておりますが、
   時々、川沿いに捨てられたゴミを、黙々と拾っている方にお目にかかります。
   誰に褒められるでもなく、社会的義務としてでもなく、ただただ黙々とゴミを拾っておられます。
   私は、そのたびに、心の中でそんな方を尊敬しております。
   『三井物産を退社した経緯、及び2003年5月30日、6月2日』でも述べましたが、
   本当の立派な方とはそんな方でしょう。
   いわゆる、世間での偉い方にも何人もお会いしてきましたが、
   社長、部長、資産家、仕事のできる方、などには、「さすが」との感情は抱きますが、
   「尊敬」「感動」はいたしません。
   私も、ゴミを拾ってみようとはしますが、時々わずかな1−2個を犬の処理袋と一緒に、
   辛うじて、月に1,2回拾うことが精一杯です。とても、できません。
   私は日々、禅関連の本を読んでいるのですが、上記そのものである。
   文章を見つけましたので、引用します。
   (出典 正法眼蔵随聞記講話 鎌田茂雄著 講談社学術文庫)
   (引用)
   禅の修業の一つに、「陰徳」というのがある。陰徳とは隠れた功徳を積むことである。
   人に知られず、ひっそりと徳を積むことである。
   われわれ凡人であると、何か善いことをすると人に知って欲しいと思う。
   さらには、人に知って貰うために、人にわかるように善行為を行うものである。
   陰徳というのはそうではない。
   誰にも知られず、ただそのやった善行の功徳を転じて、一切のものに向けて回向するのである。
   誰に認められるのでもない、誰が誉めてくれるわけでもない。
   功徳をするのも自分の人格を高めるためにするのでない。
   (引用終わり)
   多少、小生も寄付などさせていただいておりますが、心のどこかに、「自分の人格を高めよう」
   「人に貢献することはいいことだ」などの「意識」がある自分を感じており、
   上記の「自分の人格を高めるためにするのでない」という箇所には言葉がありません。
   
   2003年6月19日、2004年12月16日加筆



   三井物産を退社した経緯、及び2003年5月30日、6月2日の心境
   現在46歳で、独立してから早いもので、8年経ちました。
   独立当初はみなから、「三井物産みたいな大会社を安い退職金(本当にわずか)で、
   辞めてどうするの」と、あきれた声がほとんどでした。当時は本当に「何も考えず」に、辞めました。
   「何とかなるだろう」「マグネシウムの将来は明るい」などと気軽に考えて、
   販売目処はなんと、月間30MTのみでした。
   もちろん、その当時は金属シリコンなどほかの商品もなく、
   本当に、マグネシウム30MTで生きていくつもりでした。
   いざとなったら、警備員にでもなって、英語も多少得意だから、
   塾の教師ならなんとかなるさ、との気持ちでした。
   時がすぎ、現在46歳の心境では、当時の気持ちは本当に「無謀」であったと思っております。
   でも、8年の間に需要家の皆様に支えられ、いまでは、商品案内にありますとおり、
   多くの商品を取り扱うようになり、一応(リピート、一応)安定しております。
   商売では、幸運に恵まれ、非常に幸せです。ありがとうございます。
   他方、人生の折り返しを過ぎ、出世、富、名誉など世間の価値観に対しては、
   正直、「最低限の生活資金」「老後資金」は心配しておりますが、
   会社を大きくして名誉を得よう、などとは考えておりません。
   いかに、自分の内面である心が、充実した時を過ごせるかを、毎日考えております。
   私が、尊敬していた、美濃さん、舘井さんが 若くしてこの世をさり、
   「ああ、人間はいつか死ぬんだ」との思いもあり、人生の有限性をひしひしと感じております。
   私は、サラリーマン時代はほとんど本を読まなかった(読む暇がなかった)のですが、
   独立してからは、多読の部類に属します。
   やはり、人間の本当の幸せは物質的繁栄ではなく、心の充実、安寧でしょう。
   商売は時にそれを忘れがちですが、私としては、絶対に、「誠実に」「正直に」生きていくことが、
   結局は人間の本当の価値と現在は確信しております。
   「一休道歌」は、そのなかでも人間の本質を見抜いたものとして感銘を受けております。
   「有漏路(うろじ)より、無漏路(むろじ)へ帰る一休み、雨降らば降れ風吹かば吹け」
   この世は、一休みです。気楽に過ごしましょう
   「仏とて外に求むる心こそ、迷いの中の迷いなりけり」
   「行く末に宿をそことも定めねば、踏み迷うべき道もなきかな」
   金銭欲、名誉欲はなにほどのことでしょうか。
   5月30日にて、心の充実がこれからの人生の目標であると書きました。
   しかし、今の私は、不安、心配、が心のかなりの部分を占め、
   そのなかで、何とか皆様にお世話になって、毎日を暮らしております。
   なかなか、一休さんのいう、
   「物事に執着せざる心こそ、無相無心の無住なりけり」の心境にはなれません。
   生活を安定向上させたい、ゴルフももっとうまくなりたい。
   子供の将来も不安だ。今後の人生はどうなるだろう。などなど余計な心配をしてしまいます。
   聖書にも、「明日のことを思い煩うな、明日が明日自ら思い煩らわん」とありますので、
   「ケセラセラ」ですが、そこまでの悟りの境地には行けません。
   ただ、心がけているのは、せめて「感謝」の気持ちを持とうということです。
   生活できるのも感謝、ゴルフできるのも感謝。仕事できるのも感謝。子供に恵まれたのも感謝。
   よく、長寿のおばあさんが、「ああ、ありがたいありがたいことじゃ」などといっていますが、
   まさにそれは、そのことと思います。
   心の観照の修行中です。
   
   2003年5月30日、2003年6月2日加筆