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 第5章 仏教






   悟りとは?生物学的考察
   第6章の『インターネットは医療革新に繋がる』で、
   医療情報をインターネットで取得する世の中になった話をしましたが、
   小生もその情報を猛勉強した結果、長年の座禅を通じて、「仏教の悟り」を考えていたことと、
   その医療情報が、突然繋がりました。
   下記は、小生の立てた仮説です。
   仮説「仏教における悟りとは、生物学的に言えば、脳神経支配から完全に逃れられた状況で、
   100%腸神経支配(生命の根源)に置かれることを言う」です。
   仏教における悟りは(本来は言葉では言えないのですが・・)、表現としては、
   *宇宙と一体になること
   *本来の自己に戻ること
   *空になること(有でもない無でもない、ただの空である)
   *無我の境地
   などと言います。
   その方法(修行)としては、座禅、瞑想、念仏などの修行による自己の解放を続けること・・・
   で・・小生も一生懸命座禅を続けてまいりました。しかしいまだに悟れていません。
   他方、第6章の『インターネットは医療革新に繋がる』で、人間の体調不良のほぼ全てが、
   根源的にはリーキーガット症候群、つまり、腸から栄養素・ばい菌が血液に漏れて、
   免疫異常となり、不具合を種々生じる状況となる・・。
   とインターネットで学習しました。
   この仏教の悟り+腸内環境が、どこでどう繋がるかと言うと、
   そもそも生物の起源・進化過程は、まず単細胞、それから複数の細胞に分かれ、
   成長したり、栄養素を摂る過程で、まず「腸」が形成されたそうです。
   目もない、耳もない、心臓もない、血もない、しかし「腸」はある・・のが原始生命。
   ですので、肺も心臓も血液も、そして脳も、
   原始生命から高度な生命体への進化過程で作られた、ある種の付属物に過ぎないのです。
   そして、現代医学により、1000兆個ある腸内細菌、その消化・免疫機構は、
   脳神経の支配から完全にはずれて、腸神経として独立の脳を持つと判明しました。
   脳死の人間、心肺停止して、いわゆる「死」を迎えた人間の腸でさえ、
   独自の神経が生きている限り消化吸収をしつづけるそうです。
   ここからが 小生の仮説(仏教と腸)の始まりです。
   丹田(たんでん)とは腸であり、「丹田に気を込める」とは、腸神経を活発化することであり、
   本来の自己とは、1000兆個ある腸内細菌による生命活動であり腸内環境そのものである。
   悟りとは、「脳神経支配から完全に逃れ、原始生命である自己を見いだせた状態」
   つまり脳神経支配から腸神経支配に戻ること。でないだろうか・・  という仮説です。
   さらに仏教用語・座禅法を、生物学的に言い換えれば、
   「煩悩(ぼんのう)」とは脳神経の産物で、煩悩が昂じたうつ病とはセロトニンの異常、
   セロトニンは95%腸で作られるのですが、脳神経が腸神経に悪作用してその正常な働きを阻害する。
   およそすべての病気とは、免疫機構の麻痺、なぜなら腸は人間の免疫の70%を担っており、
   本来の自己を完全に見失った状態ではないか?
   「無になる」とは脳神経の停止、すなわち、腸内環境の正常化、腸支配生命の再現ができた状態。
   つまりは、原始生命は、悩みもせず、喜びもせず、ひたすら栄養を腸で取り込み、
   淡々と生きているのであるから、その状態に戻れ!!ということでしょう
   座禅の「数息観」「腹式呼吸」は、腹式呼吸によりマッサージして腸の環境を整え、
   吐く息により副交感神経を活発化させ、腸の働きを正常化することにより腸神経支配を優位にする。
   ということと思います。
   現代社会は、煩悩にまみれ、脳神経支配だけが「人間らしい生活」と勘違いしているようです。
   所詮、数億年数十億年の生命の進化過程から生まれた人間も、
   その生命起源からは逃れられないのです。
   腸神経支配に戻りましょう。そして健康になりましょう。
   それが「悟り」と思います。
   
   2016年1月26日



   諸行無常・生老病死
   2014年12月5日、飼い犬のモカが突然下血し、緊急搬送した先の動物病院で心肺停止となり、
   死去しました。
   あまりの急逝で、家族は大きなショックで、その死を受け入れるのにかなり時間がかかりました。
   前日まで元気に散歩したり、ワンワン吠えていたのですから・・・
   12月5日、遺体を病院から引き取り、線香を焚いて、モカの亡骸の前で2時間ほど座禅をしたとき、
   実感として、彼から生老病死・諸行無常を学ばせていただきました。
   幸いなことに、僕の両親はまだ健在で、息子も娘も成長し、妹夫婦も深刻な病気にも見まわれず、
   今までの人生では、老の実感はあっても、死は思考の外にありました。
   犬は10数年でその一生を終えますが、それ故に家族に、最初から最後まで、
   そのままの生、老、病、死を見せてくれます。
   死に際に、病院で吠えたそうですが、下血のときまではつらそうな感じはあまりなく、
   (今思えば、必要以上に甘えていましたが)淡々と生きていました。
   犬は何も言いませんが、一生懸命生きたとは思います。
   翻って、僕は日々、滑った転んだとワイワイ騒ぎ、「淡々」からはほど遠い、
   もがき煩悩にまみれた生活を送っていますが、モカの静かな死顔は、
   僕に「少しは 穏やかに生きなさいよ」教えているようでした。
   
   2014年12月12日



   マインドフルネス瞑想・禅  思考回路の変革
   最近瞑想がブームです。
   僕も2000年ごろから座禅を始めましたが、最近になようやく、座禅の面白さ・・
   というか意味がぼんやり理解してきたように思います。
   人間社会は変化が激しく、特に経営をしていますと、将来展望や経済予測、客先との交渉経緯
   クレーム処理、新規開拓、銀行へのお願い等々、色々思考・判断の連続です。
   それはつまり、思考が過去に行ったり、未来に行ったり、また過去に戻ったり、
   彷徨っていることを意味します。
   対して肉体は、今ここにしか存在しようがありませんので、
   肉体と精神が、絶え分離しつづけているのが、現代人の特性と言えましょう。
   特に商社マンなどの営業や経営者は、そのような人種です。
   そのような人種は肉体は使わず、頭だけ酷使しているため、
   健全な精神を維持するために「瞑想」が必要と叫ばれています。
   マインドフルネス瞑想や、ヴィパッサナー瞑想、禅は、
   ひたすら、今の自分の肉体・思考・感情・感覚を観察する瞑想です。
   つまり、過去や未来を思考する現代人を否定し、
   現在のみに生きるということで、心の安寧が達成されるという教え・実践ですが、
   それの意義が、12年たってようやく理解してきたように思えました。
   一言でいえば、「動物に帰れ」です。
   近代人が発達しすぎた前頭葉を捨て、生存本能の中枢である脳幹の作用だけに集中する。
   息をする、運動する、寝る、食事をする、排せつする、ただそれだけに集中することにより、
   人間を捨て、「本来の自己」自分をとり戻すということでないか、と思うようになりました。
   愛犬を観察すると、1年後の自分を心配するわけもなく、朝の散歩を10年以上変わらず、
   無邪気に喜びながら行い、おなかがすいたらごはんが欲しいとワンワン啼いて、
   甘えたければ飛び乗ってきて甘えています。
   そこには何の邪念もなく、ひたすら今の瞬間瞬間を生きているだけです。
   仏教にては「赤子の心に帰れ」とも言いますが、それも今の瞬間だけに生きるという意味でしょう。
   過去もなく未来もないのです。
   瞑想が少し楽しくなってきました。
   
   2014年11月10日



   ニヒリズムと禅と現代社会
   高度に情報が発達した現代社会。
   強烈な競争社会、物質的幸福の追求の無意味さ、あるいは閉塞感の蔓延。
   極端な格差の拡大等々、人々の心は荒みやすい環境です。
   人は生きていく間に、時々は誰でも「疲れ果て」たり、
   「こんなに頑張っても所詮変わらないや」と嘆いたり、
   「ビルゲイツも乞食も同じ人間。墓場に金もっていけるわけじゃなし、
   そこそこでいいじゃないか」等々の、
   ある種の諦観(虚無主義=ニヒリズムとほぼ同義)を持つことがあるでしょう
   ニーチェによれば、ニヒリズムとは人間の精神状態のこと
   (思想・信条・主義ということではないという意味=単なる状態という定義は意義深い)で、
   このニヒリズムにおいては、私たちが取りうる態度は 大きく分けて、2つあるとしています。
   (1)全てが無価値・偽り・仮の姿という現実世界を前向きに捉える生き方。
   つまり、自ら積極的に「仮の姿」を生み出し、
   一瞬一瞬を一生懸命に生きるという態度・精神状態(能動的ニヒリズム)
   (2)何も変わらない事態・何も頼れない信じられない事態に絶望し、疲れきったため、
   その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(受動的ニヒリズム)
   皆さんが(僕も含めて)しばしば感じる感情としては、
   「がむしゃらに働いても、その後には所詮皆年老いて死んでいくのさ。
   なんで一生懸命になる必要あるの?ばからしい」
   「たとえ成功して、大金持ちになっても、使いきれるわけでないし、
   金が幸福をもたらすわけでもない、アップルのスティーブジョブズは凄いけど、
   一生懸命働いた結果、癌で早死にしてしまった無駄じゃない?」
   「出世したって責任ばかり増大して、精神的に負担が増えるだけで何もいいことない、
   それなら楽な仕事見つけて、ケセラセラ。
   安倍首相頑張ってね〜。僕ら怠け者だけど、生活保護厚くして助けてね〜〜」
   などと考えて、(2)の人たちの結論はしばしば、人生は無意味だからして 、
   「働かなくてのんびりしよう」「結婚したって苦労ばかりだから一生独身でいよう」
   「いい仕事につけないのは世間が悪いのであるから、生活保護で静かに生きよう」
   「仕事はつらいからパチンコして、何も考えないで暮らそう」となります。
   でも、そのような人たちも、「時々は」わが身を振り返って、それでいいのか??
   との自問自答を時々するのですが、あえてそのような人たちは、
   その自問自答行為も、精神的に苦労したくないと、いう思いが先行して、
   意図的に思考停止して、流されて生きています。
   ではそのような生き方を生涯貫いて、その人は幸せを感じることができるのでしょうか?
   それは当の本人でしか判りません。
   しかも、その本人が死ぬ間際考えることですので、それも我々は分かりませんし、
   価値を論評もできません。
   そのことは以前、『人間探求教学=幸福論』で述べましたが、
   そのような人たちの幸福観は判りません。
   話をニヒリズムに戻します。
   僕も、基本的世界観は、「所詮一人で生まれて、一人で死んでいく」と思っていますので、
   ニヒリズムと言えばそうですが、ニーチェの定義でいえば@の生き方です。
   過去にも禅の言葉を何度か援用していますが、仏教の出発点も、
   お釈迦さまが、生老病死の疑問「人はなぜ生まれ、老いて死ぬのであろうか」から始まって、
   結局は「自分」という存在の(ニーチェとは若干違う意味ではありますが)無価値を説いています。
   で、その無を出発点として、無明への戒めをしているわけで、
   ニーチェの言葉でいえば、「全てが無価値」であることを認識して、
   「一瞬一瞬を一生懸命に生きる」という表現ができます。
   禅とニヒリズム(能動的)は、かなりの共通点があります。
   「今、ここに生きる」「日日是好日」や「人生は苦(ドゥッカ)である」も無価値、仮の姿、
   諦観の認識を「踏まえて」前に進む、力強い能動的ニヒリズムといえるでしょう。
   現代社会に生きる一人ですが、物欲・出世欲・金銭欲にまみれて、
   無価値が理解できずに人生を終われる人は、ある意味幸せ(実は不幸でしょうが・・)ですが、
   殆どの人間は、上記の諦観(空しさ)までは、思い至ることが多いでしょう。
   問題はその後の生き様です。
   私事ですが(正確には家族)、実家の父は今83歳になりますが、
   78歳のときに「土地建物」関連の裁定・仲裁をする国家資格に合格し、
   地元紙のニュースになりました。 
   78歳で国家資格に合格する勉強姿勢に、皆が驚嘆したこともありますが、
   むしろ78歳で合格しても、仕事として役に立つわけでもなく、
   実際業務をするわけでもないわけで、「合格して、だからどうなんだ?」という
   上記ニヒリストにしてみれば 理解不能の行為かも知れません。
   でも、今の僕なら多少は理解できるような気がします。
   父としては、その瞬間としては、勉強することが一生懸命生きる答えだったのかも知れません。
   われわれはちっぽけな人間です。些細な人生です。誰も何も気にしないでしょう。
   だからといって、この世に人間として生れ落ちることは、
   お釈迦さまの言葉で言えば「人間に生まれる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)であり、
   数百万種類の生物の中で人間に生まれる確率を考えると、
   全地球の土の中で、爪の上の土ほどの少ない確率であり、
   大変「ありがたい」(有ることが難しい)わけで、ラッキーなことなのです。
   一生懸命生きなければもったいないではありませんか。
   能動的ニヒリズムで刹那を楽しみましょう。
   
   2013年6月24日



   なぜ心が安定しないのか
   人間は、『物欲と心、中庸、知足』でも述べましたが、欲から逃れることはできません。
   悲しいサガです。
   また、不安からも逃れられません。
   小生の必携書「仏教は心の科学」(スマナサーラ著)でも繰り返し述べられていますが、
   まず、欲と不安を「そのまま」認めて、
   人生は苦であることを受け入れることから作業が始まるのでしょう。
   心を科学し、トレーニングする以外に方法はありませんでしょう。
   初期仏教と禅はその点は完全に一致しています。
   なぜ不安になるかは、心が「今ここ」に安住できず、過去と未来を行ったり来たりして、
   体と分離していることが 最大の原因と喝破します。
   多くの言葉がそれを警告していますが、大多数の人間は(小生も含め)実感できずにいます。
   心身一如、今ここの自分、本当の自己を得よと言うし、
   「心ここにあらず」として、心と体の分離を戒めています。
   人間は何か好きなものに熱中するときとか、「今ここ」の体に集中していないとき、
   自分が危険になるときとかは「悩みようがない」状態になります。
   小生の場合、例えばスキューバダイビングをしているときがその典型です。
   水中では「今ここの」呼吸を疎かにできないし、一生懸命呼吸に集中し、
   仕事のことなどを考える余裕など全くありません。
   さらに、海中の魚や亀を見ているときは、「今ここ」の楽しさを実感して、
   30〜40分、邪念など全く入り込みません。
   で、その後陸に上がっても最高の爽快感が全身を満たしています。
   まさにそのときは 禅の修行僧が座禅で「自らを遊ぶ」心境と同じでしょう。
   ですから、もし日常生活24時間が、全て「今ここ」に心を置くことができたら、
   悩みなど全く入り込まないでしょう。
   それが座禅であり、ヴィパサナーであり、心が育ったということでしょう。
   
   2007年4月13日



   物欲と心、中庸、知足
   スマナサーラさんの書物にも頻繁に出てきますし、
   小生の人生観、問題意識とも符号するのですが、
   経済行為と人間の欲は非常に厄介なものでないだろうかと思います。
   人間の欲は制御が利かず無限まで突っ走るが、突っ走れば突っ走るほど
   「これは何か違うのではないか」と自らの心が「渇いてくる」のが分かる。
   躊躇(ためら)いながら、分かりながらしかし「突っ走る」しか方法を見出せない。
   もがけばもがくほど 泥沼に入っていくような感覚を感じるかも知れない。
   物質、富、名誉を追い求める行為と心の充足は 実は反比例の関係であろう。
   物質を追い求めるのは心が充足されないと分かっても、では追い求めなさ過ぎるのも極端であり、
   そこには再度心が「渇いてくる」。
   何故だろうか、それも自然の摂理に反して、
   「節制しすぎた」「人間らしくない」自分があるからでないだろうか。
   絶えず、そのことに「気づき(sati)」を行い、中庸(ちゅうよう)知足(ちそく)に努めなさいと、
   初期仏教は教えています。
   それが出来ることがきっと中庸となり、知足を実行している意味であろう。
   そのときに初めて、人間らしい穏やかな心が戻り、心を自分がコントロールしているのであろう。
   不動心、平常心とそのような意味かもしれません。
   
   2007年4月4日



   生きるとは
   最近小生が影響を受けている人物は、アルボムッレ・スマナサーラさんです。
   テーラワーダの伝道のため日本で活躍されています。著書も数多く出されており、
   日本の著名人(養老孟司、立松和平、玄侑宗久諸氏など)との対談本も多く出版されています。
   過去『人生の最大価値とは 人生とは』でも、「人生」に関して感じたことを書きましたが、
   禅のアプローチは、それはそれですばらしいとは思いますが、
   簡単なことを複雑にしてしまっているような気が、今はしています。
   彼は、「生きるとは何ですか」と語りかけています。
   我々の価値観、考え方では、生きるとは「生活すること」具体的には、学習したり、結婚したり、
   就職して金を稼いだり、子供を育てたり、・・すること。と思いますね。
   でも、それは実は、「生きること」ではなく、「生きているからやっている事」
   「生きるための道具、手段」と言い切っています。
   「生きることの本当の意味」を分かっていない。だから「悩む」のである。と教示しています。
   そうです。私も分かっていません。
   人生の価値(世俗価値)にこだわり、悩んできました。
   釈迦が言う「人生は苦(ドッツカ)である」も実はこの問題を言っているのです。
   テーラワーダはある種科学的で、簡単なことを簡単に説明してしまっています。
   なるほど、とは思えます。
   でもその境地には、結局のところ、禅と同じように「達するには大変」ですが・・・
   彼は「人生はゲーム」である。粛々と生を受け、粛々と死んでゆく、ただそれだけであるが、
   その過程が人生で、ゲームを楽しまなければ「もったいない」と言い切ります。
   人生を楽しみ切るためには、「心の成長」を目指さなければならない、とも仰います。
   これも、小生の考えと全く一致していますが、彼は極めて科学的に説明してくれます。
   全ての事象に「気づけ」ばいい。
   痛み、悩み、喜び、生きがい、感情の変化、肉体の変化、動作、思考、
   全ての五蘊(ごうん)は、所詮、「自分」でない「心」でない、客観的に「観察」できるものである。
   それをひたすら観察しつづけること、それが客観的心の成長である。
   観察して観察して、そして、それを徹底的に楽しむこと、全てを受け入れること。
   そうすれば、粛々と平穏に生きられる、と説明しています。全くそのとおり!
   生きることを楽しもうと思います。
   
   2007年2月13日、2007年2月26日加筆



   精神と肉体について 心身一如
   現代社会に生きる一市民として、また日々ストレスと戦わなければならない零細企業の社長として、
   「大安心のもとに生きる」ためには どうしたらいいかを最近自らに問いかけております。
   座禅会に出席しはじめてから 1年半、家でも毎朝しておりますが、当初「精神修行」と思っていた
   座禅も実は 肉体の鍛錬でないか との思いに現在は至っております。
   釈迦も菩提樹の下で 座禅の結跏趺坐(けっかふざ)をして悟りを開いたとされていますが、
   それ以前には「修行」として、さまざまな肉体鍛錬(いじめ)をしておりました。
   道元の進める 只管打坐(しかんたざ)も「ひたすら坐禅する」わけで、
   「不思量を思量せよ、非思量」とあり、肉体に問いかける行為と思っております。
   ヨーガも結局は肉体に問いかけて、精神をコントロール(言葉が不正確ですが)するわけで、
   呼吸、姿勢、鍛錬などによって「心の安定」を図れます。
   わが身を省みると、三井物産時代も含め、仕事、仕事(精神活動)に明け暮れ、
   心が常に現在になく、過去(反省、後悔、成功体験)と将来(予測、不安、判断、戦略構築)を、
   行ったり来たりしておりました。まさに心身別離でした。
   其の上、肉体に問いかけることも皆無に近く、
   結果、出っ張った御腹、弱い足腰、ふにゃふにゃの体幹筋肉にて、頭中心の生活をして参りました。
   今、48歳ですが、肉体にもっともっと問いかける必要性を感じております。
   たかが坐禅の2−3柱(1柱はお線香一本の時間、30分程度)をするにも足が痺れる、
   背筋が伸びない、集中力が欠ける状態で、我ながらなさけなく思います。
   また、最近テナーサックスのレッスンを受けていますが、それもたかが1時間のレッスンにて
   サックスを吹いていますが、腹筋の弱さ、呼吸法の未熟さからばてばての状態です。
   そこでいまは、仕事も大事ですが、まずは心身一如を目指し、
   体幹筋肉、呼吸筋を徹底的に鍛えようと思い、
   ヨーガの呼吸(強い腹筋呼吸ー火の呼吸)をいま続けていますが、だいぶそれがいいように思います。
   また一説には 「心の安定」にはセロトニンの分泌が欠かせなく、そのためには 坐禅、ヨーガ
   水泳、それと強い腹筋呼吸(腹式(横隔膜) でなく腹筋)がよいとされています。
   とりあえず、今、それを全部しております。
   今年末までには、変身したスリムな(しかしがっちりとした)上島をお見せする予定です。
   
   2005年9月5日