2003年より徒然なるままに、書いた随筆ですが、かなりなヴォリュームになりましたので
テーマ別に仕分けしてみました。
第一部:「健康について」
第二部:「政治経済・世界情勢」
第三部:「仕事・商売について」
第四部:「人生・哲学」
第五部:「仏教」
第六部:「時事問題に思う」
第七部:「中村天風について」
第八部:「一般・趣味」
駄文ですが、お暇なときお読みください。
第一部:健康について

 (仏教の悟りとは  副交感神経の活性化の完成であった!!)

 お釈迦様の悟りの話を始める前に交感神経と副交感神経の定義(皆さん百も承知でしょうが)
  を致します。自律神経には交感神経と副交感神経があり、
  交感神経は 心と体を「がんばるモード」にシフトする神経で、 別名戦闘モード神経と呼びます。
  交感神経は 仕事で緊張したときや 身の危険を感じた時、闘争するとき、など生命の危機が
  生じたときなどの ’’ここぞ’’というときに働きます。
  交感神経が働くと  心拍数や血圧をあげ、呼吸を速くし、血管を収縮させて 心と体を
  戦闘態勢にします。
  一方の副交感神経は 心と体を「リラックスモード」にシフトする神経です。
  副交感神経は ゆっくり休めるように、心拍数や血圧をさげ、呼吸をゆったりさせ、血管を
  拡張させ、心と体を落ち着かせようと働くわけです。

  話を仏教の悟りに戻します。
  お釈迦様は 若い時「生老病死」の悩みを解決すべく、出家を決意し、修行をするのですが、
  苦行では悟りを得ることができず、菩提樹の下での瞑想坐禅にて悟りを啓きました。

  人類は古代より 死への恐れ、疫病への恐れ不安、 戦争での緊張、 老化への嘆き、等々
   常に恐怖・不安・に苛まれていました。つまり  交感神経が働く瞬間を何とか
   忘れる・逃れる方法はないか・・・ということを強く願ったわけです。

  お釈迦様はその生老病死の不安・恐れ(つまりは交感神経)を解決するために
  最初はあらゆる苦行をしましたが、  それは換言すれば「交感神経をさらに鍛える」という
  方向性と言えましょう。
  苦行を重ねた結果、確かに 交感神経は鍛えられ、ちょっとやそっとの困難は乗り越えられました
  が・・・  お釈迦様も「安寧」は得られませんでした。

  で・・・ 最終的な悟りは 菩提樹の下での坐禅瞑想にて 得られました。
  換言すれば、 副交感神経の完全育成の成功です。
  現代医学(自律神経学)では  副交感神経は  人体では 2か所が大きく影響するそうです。
   一つ目は  仙骨神経叢   つまりは 丹田から仙骨にかけてです。
    坐禅の結跏趺坐は  丹田と仙骨を刺激します

   もう一つは 頸神経叢です。  首の裏側から肩にかけてです。
   坐禅では  頭と首と脊椎と腰椎が  一直線になることを要求しますが、
    それは頸神経叢の副交感神経を 最大限に育てるということになります。
  その重要な2か所を意識しながら、
   坐禅にては 「数息観」を含めた 腹式呼吸による呼吸のコントロールを要求します。
    つまりは 副交感神経を最大限働かすために   自律神経+体性神経  が 両方機能する
    唯一の行為「呼吸」を 意図的にゆっくりすることにより 副交感神経を活性化するわけです。

  お釈迦様の悟りは   まさに 苦行(交感神経を鍛える) でなく
   坐禅(副交感神経を活性化する) により  達せられたわけです。

   2017年10月5日


 第二部:「政治経済・世界情勢」  
  (金密輸摘発に思う)
   本日の日本経済新聞経済面に「金密輸額の5倍 罰金に・・」というコラム記事があります。
  密輸といえばつい10−20年前は、  「非合法」「麻薬・覚せい剤」「武器・拳銃」「暴力団」という
  ものをイメージしたのですが、最近は  金塊がその代名詞になっております。
  もちろん、日本国の法律(外為法、関税法)を順守し、合法的な輸出入をすることが
  日本国民として当然の義務であるわけですが、 そもそもなぜ 金塊の密輸が日本向けだけに
  行われているか???という  事の本質を考えると、日本国の法律自身にも問題がある
  と思うに至りました。

  この金塊密輸は、麻薬・武器とは異なり、当該貨物自体には非合法性はありません。
  金塊は世界中の 価値基準の根本であり、つい最近までは「金本位制」が世界の価値の基準でした。
 つまりは、金塊とは「いかなる政府にも属さない世界共通の通貨」なわけです。

  米国・欧州を始め、世界中の中央銀行がその「究極の通貨性」を認めるからこそ、
  スイスや米国や英国の地下金庫には数百トン、数千トンの金塊が「最後の通貨担保」として
   眠っています。

   そうです!! 世界は 金塊を通貨として認識しています。だからこそ その通貨としての
   金塊には「消費税」を課してはいないのです。
   そして、唯一日本国だけが、金塊の 通貨性を否定し、「金塊は商品である=従い消費税を課す」
   としている誠に おかしな国であるわけです。

   そのおかしな国をターゲットにして、消費税8%を狙って、密輸が行われているわけです。
   もちろん、「密輸=関税法違反」はいけないことなのですが、 通貨に消費税を課すという
   おかしなシステムがある限り、 この密輸はなくならないでしょう。

   麻薬や武器は  世界中が悪と認める 反社会的物質です。 でも金塊はこれからも
   世界中の「信用の最終担保」として 善・・なる 物質です。善なる通貨です。
   これが 金塊密輸の本質であることを考えれば、 日本の法制度がグローバルスタンダード
   に合わせて 変化することが望まれます。

   通貨には「消費商品」的性質は全くありません。 通貨は消費商品の流通を円滑化する
   単なる媒体物なのですから・・・

   2017年11月29日



  (日本国の国富と 国の借金1000兆円=問題の本質)
   国の借金1000兆円は  文字通り「借金」ですが、この問題の本質は
   今 巷でいわれている「国債の破たん」とか「日本国の破産」ということとは
   全く異なります。 政府・マスコミもその問題の本質を語りませんので、
   下記にて 説明します。

    この本質は「借金の返済方法論」ではなく「富の移転」の問題です。
   すなわち
   *数字の引用根拠は 内閣府経済社会総合研究所国民計算部の 「国民経済計算確報」
    ですが、ここでは単純化のために 概算数字を用います

   (1)確かに 日本国政府の 借金(負債)は 1000兆円あるが、どの法人・個人もバランスシート
      のほかの側面(資産・対外資産)をもみて 純資産・純負債で判断しなければ
      ならない
      その観点から言えば  日本国政府も金融資産+非金融資産は豊富にあり、
      純負債は まだわずかであり
      金融純負債に限って言っても500兆円程度である。
      従い、おおよそGDPの1倍程度である
   (2)他方  日本国民(一般家計)の バランスシートは大きく プラスであり
       純金融資産は 1500兆円あり 純非金融資産(土地・不動産)は1000兆円を超える
      つまり日本国民は 国富として 2500兆円保有している
   (3)日本国の国富は 政府・企業の金融資産+非金融資産を加え 総負債を
      差し引いた数字でも  総計3000兆円ある

    つまり  「日本国」は極めて健全なのである。
  しかし・・しかし  日本国政府のバランスシートは きわめて不健全であり 
  おおよそ500兆円の借金地獄なのである。

   で・・・我々 日本国民が 強く自覚して 納税者として 政府をモニターしなければ
   ならないのは
  「日本国政府は  徴税権を有しており、 世界にも例外的に特異な 高い相続税率(財産税)を
    制度化している」事実である。

  つまり・・・ 極めて不健全な 借金地獄を日本国政府が解消しようとすれば
   その第一として  日本国民から日本国政府への「富の移転の促進化」を
   画策することが可能な税体系なのである。
  富の移転 方法 (すなわち国富の移転)としては  下記の2つである。
   あ)消費税+所得税== 付加価値GDPから 国が徴収
     GDPは500兆円とすれば  消費税10%は 50兆円(完全徴収すれば)
      さらに所得税 25%は 分配・黒字企業・個人から限定としても
       30兆円は徴収可能だろう
     この消費税+所得税は 大多数の国が「妥当」として制度化している
      フロー税であり、 これは毎年毎年の日本国全体の総付加価値(GDP)を
    どのように配分するかの 問題であり、 現行の消費税8−10%や
   所得税 20−30%(それ以上は高すぎる)であれば 妥当であろう。
   つまりそれは毎年の フローから生み出される 付加価値の再分配の問題で
   日本国民から政府、  日本国民富裕層から貧困層への 再分配として
   認識される(累進課税や 生活保護費や 年金もこの再分配に関連する)

  い)次には 財産税である 相続税。これは あ)のフロー税に対し いわばストック税
    と言える。  
   相続税を  平均30%取り立てたら 下記の計算が成り立つ
     国民総国富  2500兆円 が 30年で世代交代が一巡するとすれば、
      毎年の相続税収入(国民から政府への 富の移転)は
      2500兆円 x 30% ÷30年= 毎年25兆円の 税収入となる。
   このストック税の考えの根底には 「国富とは本来誰のものか」という議論がある
   コモンウェルス諸国は 一般に相続税が 無税である。 それは
 「 国富は 本来は国民のもの=政府は国民の公僕である」という考えから
   であろう。
   政府の運営資金は あくまで毎年の総付加価値(GDP)に対する 適正比率の税で
   賄われるべき・・・ということであろう。 その考えで 消費税は日本より高額で
   おおむね20%程度徴収されるし、 所得税も 高額で 30−40%が多い
   そのかわり 低所得者への富の再分配も その「フロー税」で賄われる

  対して 日本は フロー税が低すぎるので、 適正政府規模(GDPの2割程度の予算=100兆円)
   を フロー税ではカバーしきれないので ストック税や 国債でカバーするという
   方向性が働くのであるが、
   ストック税(財産税)の根底に流れる思想は コモンウェルス諸国とは異なり
  「国富は 本来は国家体制・国家統治者のものである」という考えがあると
   思わざるを得ない。

   さて 本題に戻ると、 日本国徴税システムを 今後フル活動させれば、
    つまりは  上記あ)と い)を徹底化すれば  50兆円+30兆円+25兆円= 105兆円の
   徴収が可能となるわけである。
    国の予算を 90兆円まで膨らませても 15兆円のプラスとなろう
   これが「怖い」という理由である。

   国(国家統治者)は 国民がしっかりモニターしなければ 
   際限ない 徴税権を行使して 富の移転を 一般国民から 国家政府へ行うことを
   画策する「主体者」に陥りやすい危険性がある。

   つまり1000兆円の借金が問題になるのでなく、 その本質は
   「政府が1000兆円・・・という不安を助長し、 国民から国家政府への
  富の移転を さらに画策することが問題」
   なのである。

  2016年9月16日
(拝金主義と 資本主義、商社の役割)
   昨今の考えさせられる経済事件としては、 上海福喜食品での
   期限切れ肉混入事件があります。
   人間にとって、本当に大事な 「安全」「生命」「品質」を軽視・無視して、金のため・儲けのためには
   手段を選ばない拝金主義と言えます。
   過去、何回も人間の欲は無限であり、資本主義の弱点もそこにあると言ってきましたが、
   一向にそのような経済事件がなくなりません。
   勿論、そのような企業、工場は悪いわけですが、では「なぜそうなったのか?」と
   考えますと、一概に供給側だけが「ゆがんだ欲」を持って、需要側である企業が
   「善良な人間」であったとは必ずしも言えないかも知れません。
   資本主義は純粋競争原理の下、企業の栄枯盛衰が避けられません。
   誰でも、死ぬことは 嫌です。一番強烈な欲は 「生存本能」による生存欲です。
   これは法人でも同じでしょう。 倒産や解雇、赤字転落は真っ先に避けたい「生存欲」が
   働きます。
   マクドナルドは 100円マック等々で外食産業として確固たる地位を得続けたい欲が
   ありますので、供給先には ギリギリのコストで供給するよう求めます。
   しかし、食品企業としては 最大のダメージは 食品に毒やウィルスや大腸菌が混入し
   消費者の生命を脅かすような食品提供をしてしまうことです。
   ですので、当然ながら、供給先には「コストは最安値、しかし品質は最高品質」を
   要求しますが、それは 自己矛盾であることを承知しながら要求するわけです。
   品質保全のためには 供給先の製造工程を指導し、管理し、査察するのですが、
   社員を常駐したり、 LOTを全数検査したりすれば、「コスト最安値」の理念は
   達成できません。
   で、しかたなく、コスト最安値で供給する先を「信頼」するわけですが、今回の事件は
  それが裏切られた形になったわけです。
   強烈なコストダウン要求をされる企業が、それでも生き延びようとする場合、
   「究極な局面」では  企業生存本能が 品質モラルより勝る ということまで
   あり得ると物語ったわけです。
   弊社は食品ではありませんが、 非鉄を通じて中国の供給者の生産物を
    日本の需要家様に 供給しております。
   需要家さまに於かれては、「品質は当然満たされた前提で」コスト追求をされている
   わけですが、 そのご要求をしっかりと受け止め、しかしながら中国工場の生存本能を
   脅かす限界の「直前」で、その状況を察知して、需要家さまにフィードバックし、
   品質管理へのご信頼を得る作業が、弊社の商社としての最大の役割と理解
   して、日本と中国の架け橋として今後も役割を果たす使命を  今回の食品事件を
   通して、感じましたので、 久しぶりに雑感を書かせていただきました
   2014年7月24日
(本音の経済学)
  民主党政権下、経済もますます悪化し、究極の選択もせず、無策の日本経済は
  ますますの地盤沈下で、商売や日本経済へのコメントが思い浮かばなかったので
  筆をとることから遠ざかっておりました。
  昨年末、民主党の大敗、自民党の大勝で、安倍政権が誕生し、所謂「アベノミックス」への
  期待感から 円安、株高を示しております。
  20年以上に及ぶデフレからの脱却のため、 アベノミックスで @通貨供給量の増大
  A金融の大幅緩和、B公共事業の拡大により
   インフレを起こし、年率2%のインフレターゲットを設定して、経済の活性化を図ろう
   ということです。
  ここでは、アベノミックスの本音の経済学、インフレの真理を述べてみたいと
   思います。
   国家は貨幣を発行しますが、その国家に信用がなければ、貨幣はただの
  紙っぺらですので、無価値と言えます。これでは国家は成り立ちませんから、
  本来は自らの通貨に対しては、全力で信用を勝ち取るような政策が普通の政策と
  言えます。言いかえれば、自らの国民・海外投資家に対して、日本円を信用してもらう
  愛してもらう、ポートフォリオで選んでもらう政策を講ずる必要があるわけです。

  しかしながら、その政策を取ると、@日本国家への信用による円高、A国民のポートフォリオ
  が日本円保持・預金に向かい、資産のなかで大半を円貨幣資産を保有し、其の他の資産への
  分散をしない、結果デフレが起こる  というジレンマが現在の日本と言えます。
   アベノミックスは その逆、究極を言えば、国家信用を意図的に低下させる試みと
   言えるでしょう。
   インフレは 一言でいえば 「その貨幣への執着の消滅、失望感の発露」と言えます。
  日本円への執着は、 日本円への信頼・信用、、貯蓄への執着、金融財産への信頼、
  がある限り、日本円を手放しませんので、 物より円、不動産より円、ドルより円ですので
  インフレは起きません。
  インフレが起こるのは、 日本円への失望の気持ちから、日本円よりゴールド、日本円よりドル
  日本円より不動産、日本円より自動車、という人々の気持ちから必然として 日本円を手放して
  物への需要増大、ポートフォリオでの日本円資産から 動産・不動産への転化、他の通貨への
  転化という変化により、インフレになります。
  アベノミックスの本音の経済学は、従い
  「どうやったら日本円への執着を解放させるか」ということです
  ですので、
  @国債を 極端に発行し、日本国は「返済不能」であると外国人に思わせ、日本円を売らせる
  A貯蓄は意味をなさないと 思わせるまでに 金利をゼロにする
  Bこのままでは日本円は紙切れになる と 思わせ、人々に物やゴールドや不動産で
    財産を保全させる

  ということで 狙いは「日本円への信用をどうやったら失墜させられるか」という
  経済政策です。ある意味、180度の意識転換を日本国民・世界の投資家に求める
  大胆な試みとも言えるでしょう。
  これは 大恐慌から 戦争に突入するときのドイツのハイパーインフレ以来の
  試みですが、  ハイパーインフレの危険性を孕みながらの荒療治です。
  ひとたび 信用の失墜が起これば、2%のインフレなどでは到底すみません
  30−40%のインフレになるので、非常に高度な調整を必要としますが、
  歴史上 その調整をソフトランディングさせた国家はありませんので、
  今後の動向が注目されます。

  2013年1月16日、1月18日加筆
   (究極の選択)
  経済成長の本質を書いて9ヶ月、日本人が戦後初めて 日本国の存亡の危機に
  直面する未曾有の大災害に遭いました。東京に住む我々は停電、ガソリン不足、食料の
  欠如への不安と共に 今3月18日を暮らしております。
  経済成長の本質とは19)で申し上げましたとおり
  「1日24時間を より速く、より遠くへ、より多様に、より無駄に、過ごすこと」が経済が成長
  する秘訣です。
  今3月18日の東京は どうでしょうか?
  より速くは 新幹線も在来快速も停止、高速道路も閉鎖
  より遠くへは ガソリン不足で 制限
  より多様に は 野球サッカーあらゆるスポーツ観戦、音楽ライブの中止、動物園・植物園の
  閉館等々  大きな制限
  より無駄に も 飲食店・パチンコ・マージャン等々も 停電により制限
  つまり 経済成長に必要な ポイントはことごとく 何もできない状態になっております。
  人間究極に追い込まれると やはり一番重要なものを残して 「無駄」を排除
  することになります。
  食べること(配給してでも 生命を維持する)
  寝ること(家が流されて 雨露しのぐことすらできないのも 生命の危機)
  着ること(着の身着のままで避難した人達が望むものは 着替え・クリーニングである)
  それと最低限の 移動手段及び 体温維持のための暖房用の 石油・ガソリン
  である。
  つまり 明治維新以前に必死に追求していた 「安心して生きることのできる
  最低限の生活維持 衣食住の保証」に逆戻りしています。
  停電の間、日本人 いや現代人全員の 今までのサガ、行為、思想への反省を
  改めて感じざるを得ない 時間を過ごしております。
  福島第一原発の放射能汚染は 何とかして人類の英知で抑えることが可能と信じて
  おりますが、問題は その後の 日本人の究極の選択でしょう。
  すなわち この期に及んでも 尚 経済成長、言い換えれば 繁栄至上主義
   「1日24時間を より速く、より遠くへ、より多様に、より無駄に、過ごすこと」を
  際限なく追求しつづけ、 原子力だろうが、石油だろうが、資源は使えるものは
  出来るだけ使って、繁栄ーー破滅の道を 歩み続けリスクを持ち続ける選択をするか
  (それを選択すれば さらに 無駄な消費をしつづけられるし、しつづけなければならない)
  あるいは、原子力の放射能汚染防止のほうが、繁栄・享楽を捨ててでも価値が高い
  ので、現状の電力で満足し、原発は永遠に作らない。これ以上の資源消費は
  資源が枯渇するので不可能で 行わない。従い 色々な無駄な しかし享楽を味わえる
  物は諦める。その見返りとして 世界平和、環境保護を最大価値とする。

  この2つ のどちらかを選択しなければならない時期に 人類は来ているわけであろう。
  両立は もう不可能である。
  あなたは 更なる繁栄を選び、 人類の破滅のリスクも 同時に背負いますか?
  それとも 世界平和、環境保護、放射能リスクからの開放を選びますか?
  ただし それは 大いなる我慢を伴います。今の停電のように・・・

  2011年3月18日
  (経済成長の本質)
  日本経済は停滞、中国はGNPで日本を今年追い抜くことが確実視されていますが、
  経済とはつまるところ、個々人の経済活動の総和ですから、日本人個々人の生活が
  経済成長に直結するわけです。ですから今後の日本の経済成長は日本人個々人の「生活」
  に、結局はその本質を求められるわけです。
  日本人が今後人口が増加すれば別ですが、1億2000万人として一定であれば、
  個々人の生活の質を高める以外に道はないのですが、「生活の質」とは何でしょうか?
  人間は生きるためには 衣食住が最低満たされなければならないので、食べるため、
  着るため、雨露をしのぐため、人間は必死で働きます。
  古代から明治維新までは 衣食住すら満たされることがやっとであったため、
  経済成長などという概念以前の問題で明け暮れたわけです。
  産業革命・技術革新とは、言い換えれば、
  「人間が衣食住・労働のため以外の時間を使えるようになったこと」です。
  そこに経済成長の本質があります。
  江戸時代までは、農民・商人は 朝起きて、粗末な朝食、労働、お茶休み、労働、昼食(ない
  場合もある)、労働、夕食 で、明りもないのでそのまま就寝の生活でした。
  人間の消費は 従い「食」がほとんどで、衣類は合計で5-10枚、長屋に住んで、
  6畳一間 家族が寄り添って生きるわけで、殆ど成長つまり「余計な時間」はありません

  さて、現代人は どのような生活をしているかというと
  朝起きて、朝食、会社まで移動手段(電車・バス・自家用車)、途中読書ないしi podで音楽、
  労働(遠隔地の客先が多いので電話・パソコン) 昼食は外食 レストラン和洋中の選択
  海外出張 飛行機 ホテルの使用  夕食のみならず バー・・飲み屋・コンサート
  演劇鑑賞・絵画
  休日には 旅行・ドライブ・ゴルフ・テニス・ハイキング・音楽演奏・読書・テレビ・温泉
  フィットネスクラブ・動物園 などさまざまな施設・手段の利用
  快適性の追求 夏はエアコン・冬は暖房・サウナ、衣食住の選択拡大、すなわち
  ファッション産業・ブランドにより洋服を100着購入したり、レストラン美食を
  追求したり、居住場所の複数化・別荘の所有したりすること(つまり無駄の拡大)
  を行っています。
  一日は24時間、古代人も現代人も平等です。
  経済成長とは 上記の通り、個々人レヴェルで
  「いかに衣食住以外の時間を素敵に・無駄に過ごせるか」の
  できるかぎりの多様化すること と言い換えることができます。
  現代では いかに素敵に無駄な時間を過ごせるかの消費刺激に成功した企業や
  人物が成功するわけです。
  i Padは 絶対必要なものではありませんが、皆が素敵に無駄な時間を楽しく過ごせる
  ことに成功し 「経済効果」例えば3,000億円あったとしますと、それは
  ある種のInovationです。ただし24時間は不変なので、必ず、i Padを長く使用する人は
  今まで使っていた「何か別のもの」の時間を削減しますから、i Padはその何か別のものの
  マイナスの経済効果も一緒にもたらしています。
  現代の若者の24時間の使い方では通信機器やゲームに偏っているので、
  昔の若者にあった「何か別のもの」の時間を削減しています。それは車であったり、
  マージャンであったり、飲み屋であったりします。車が売れないというマイナスの
  経済効果と携帯電話での 通信費用・通信時間の増大は表裏一体であったりします。
  石川遼さん の経済効果は 500億円あったら、それは今までゴルフに興味なかった
  女性がゴルフを始めるとか、ゴルフファッションに新規需要が出るとか、石川遼さんがCMで
  宣伝すれば売れるとか、さまざまな「素敵な時間」を新規に石川遼さんが提供して
  新たな需要ニーズを創出しているからです。でも同様に今までの「何か別のもの」は
  捨てられています。
  もう結論は出たと思います。
  1日24時間を より速く、より遠くへ、より多様に、より無駄に、過ごすことが経済が成長
  する秘訣でしょう
  日本人は(米国人も含めて)もう24時間をこれ以上多様に過ごすことの必要性に疲れて
  いるかも知れませんし、新たな刺激の余地が少なくなっているとも言えます。
  それに比べ、中国人やインド人は まだまだ「衣食住」から脱却している人が少ないので
  経済成長、すなわち 「24時間を多様に過ごすこと」が可能な余地が一杯あるのです。
  人口が13億人の中国が 1億2000万の日本とGDPが同じであることが
  そもそも 個々人の経済生活の総和がGDPであることを考えれば異常なわけです
  ちなみに輸出行為は 「他国の経済行為に奉仕すること」ですから輸出行為は
  その国においては、労働時間の増大の見返りに貨幣収入の増加をもたらしますが、
  経済成長の本質である「自国民の経済活動の多様化」には貢献しません。
  「観光産業」も他国民への開放の本質は 他国民の経済活動・満足へのサービスの提供ですので
  輸出と意味は同じです。つまり他国の経済活動に依存しているわけです
  輸入・海外旅行は当然ながらその逆ですので、
  自国民の経済活動ニーズがあるからこその輸入・海外旅行(財の消費)なわけです。
 2010年7月16日、7月26日加筆
  (適正な政府規模とは?所得税・相続税と消費税)
  昨今、景気低迷から 税収不足、国債44兆円発行、政府の肥大化、国家財政の破綻
  等々が新聞紙面を賑わせています。
  国・地方公共団体の借金は 何らの有効策を打たなければ早晩1,000兆円になるとの見通し
  これは 国民一人当たり 800-900万円となります。
  他方 現在の日本のGNP(GDP)は 約500兆円のレヴェルから20年来変化ありません。
  つまり国民の富を2年全て費やして、やっと返済できるほどの巨額の借金があります。
  むちゃくちゃな借金まみれの国家です。
  現実問題1億2000万人が「生活」していかなければならないのですから、
  その富を2年間全て 借金返済に充てるのは不可能です。
  月収20万円の人が、のまず食わず、20万円全て借金返済することは不可能なように・・・
  世界の常識なら、とっくに破産国家ですが、国が借金まみれなのに対し、
  しかしながら、家計・個人は 健全で、
  現在1,300兆円の資産を保有しておるといわれており、故に、
  国家は 家計・企業・政府の「総合体」であるので、 他国からみれば 日本はまだ
  総合体としては「黒字」であるとみているため破産認定を免れております。
  しかし、だからといって、これはとんでもないことで、現世代の放蕩を 先送りして次世代・孫世代に
  「お前たち頑張ってね」とお気楽に過ごしている我々の責任です。
  ではなぜ、ここまで政府の赤字が膨らんだのでしょうか?
  政府は 「公共財の提供」と「富の再分配」が仕事ですが、その仕事のために公務員の給料
  を我々が支払っています。それを納税者である我々は 信託して、その費用支出を
  国会を通じて承認してきました。おおいなる間違いを犯してきたのです。
  「富の再分配」は冷静に観察すれば、 現世代である同一時系列における 分配ですので
  この支出は富める家計から貧しい家計へ富が政府口座を経由して移動した
  即ち、 貧者にお金が移動しただけですので、無駄な公共支出とは見なされません
  従い、何の問題もありません。
  問題は 「過度な公共財の提供」や「無駄な公務員の存在」があった場合で、 それが
  国債という借金で補われると 世代間の歪みにつながるわけです。
  では、どの程度が政府の支出として妥当でしょうか? 私見では、
  政府は「富の再分配」以外の財政支出は GNPの10%を超えてはならないと思います。
  つまりGNPが500兆円であれば 50兆円  これが最適規模の最大値でしょう。
  皆さんの周りを見回してください。公務員が10人に一人いれば、それは多すぎると
  思いませんか?ましてや 5人に一人、どこもかしこも公務員、富を生まない公務員
  であったなら、国としてHEALTHYでしょうか?
  しかして現状は 一般予算90兆円超え、特別会計と合わせると 200兆円にならんと
  しております。つまり支出面からみれば、納税者5人にたいして公務員が2人
  いる計算になります。そしてその2人が我々から給料を得て、我々並に どんどん
  お金を使っているわけです。
  これはおかしい!と思いませんか?
  なんで 500兆円しかGNPがないのに 200兆円も政府が
  使うのでしょうか???そんなに 公共財ってありましたっけ? あるはずはありません。
  必要ない「偽公共財」が氾濫しているだけです。
  郵政国有化、不要な許認可機関の設置、膨れ上がった役所の屋上屋、無駄のオンパレードです。
  家計・企業・政府のバランスで政府が4割の富を支配するという構図は、世界でも
  独裁国家・共産主義国家を除けば稀な存在でしょう。
  まずは、基本的に 江戸時代からの封建国家が続いていると見た方が良いでしょう。
  今民主党が 仕分け で 無駄の削減に取り組んでいますが、
  200兆円規模から 75兆円に 6割程度削減しなければ、本当の無駄はなくならないでしょう。
  
  で、民主党公約が「首尾よく」「奇跡的に」実現したとして・・・税金の無駄遣いがなくなり
  「富の再分配」を除いた部分で 公共財の提供を50兆円に抑えることに成功した後に
  さらに 増税の必要性を我々は受忍しなければなりません。
  これ以上赤字国債を発行することは、現世代が次世代から強制的搾取、いや既に
  搾取していますが・・・ これは極めて不適当であります。選挙権もない、いやまだ生まれてさえ
  いない 我々の孫の世代に 借金を先送りしているのですから・・我々は経済的犯罪者でしょう
  政府の支出の荒療治を終えた後は、我々自身も痛みを感じて、
  唯一の解決策として、やはり消費税の大増税 それも15%程度まで一挙に引き上げることが
  急務です。
  日本のGNP500兆円であれば 15%の消費税は 75兆円 
  消費税は「現世代で完結」「受益者負担」「平等性ある税金」であり、「いま、ここに、すぐ」
  負担と義務を全うできる公平な税制でしょう。加えてデフレ経済下では、
  強制的インフレ誘発政策も伴い、付加価値の心理的低迷を払拭でき一石三鳥であろう。
  此処に要点を記述すれば・・・
  そもそも、政府部門はは家計・企業に比して 2割を超えてはならない。
  つまり、所得税にせよ、住民税にせよ、事業税にせよ、消費税にせよ 2割以上税金を
  徴収すること自体が 「非論理的」である。従い、税制の原則も2割を超えてはならず、
  所得税が 40%も課されているのは明らかに異常。40%のうち、公共財負担でなく、同世代の 
  富の再分配部分が20%(つまり半分)もあるはずもなく、つまりこれは「お上意識」の役人による明らかな
  「召し上げ」感覚による大いなる勘違い税制であろう。
  日本国が滅亡を避けるためには、即刻
  11)支出は GNPの10%まで(富の再分配5%を加えても 15%が限界)
     すなわち GNP500兆円ならば 50兆円に抑えるべき
       防衛費・インフラ整備、一般行政サービス等々
     残りの25兆円は 富の再分配すなわち、年金・生活保護・子供手当て
      等々
  22)で、75兆円の 大半は 直接税である消費税 にて 50兆円以上を補い
     所得税・相続税は 10兆円程度に抑えるべき
  33)国債は 即時ZEROにすべき
  
  では我々は何をすべきか、
  小さな政府の実現、消費税の導入 と共に 「赤字国債」を引き受けない
  つまり国債を安易に流通させない という意識が 国を動かす原動力となるでしょう
  2010年4月12日
  (グローバル化のジレンマ、流動性の進展と歪み)
  円は85円台に突入しました。14年ぶりの円高です。通常は貨幣の切り上げは
  国力の評価が100%反映されるので、円がきり上がったのは 「喜ぶべき」ことの
  はずですが、日本国民の大多数は 憂慮しております。
  これは、なぜかいうと 「流動性」の進展と歪みで説明できます。
  一国の中では、流動性が高まれば高まるほど 経済の需給のバランスも貨幣価値も
  瞬時に調整されやすいので、流動性が高まることは 歓迎されますが、国際社会では
  複雑です。
  なぜなら 「国家・国益」という 永遠に流動性を阻害する存在があるからです。
  資本主義経済は 流動性の高まりを目標としてきました。
  貨幣の流動性、労働、資本、物流 全ての流動性が求められます。
  もし 世界がグローバル化の極致として 「完全流動性」が達せられたら、
  全世界の人民が 同じ職種の賃金は同じ、物価も同じ、貧富の差も同じ、教育も同じ
  となり、日本人だろうが、中国人、インド人、アメリカ人 だろうが、例えば自動車産業の
  労働者は 同じ待遇を享受することとなります。
  現実は・・・ 流動性100%ではありません。
  貨幣価値の歪み、賃金の歪み、教育の差、政治体制の差、国益の差、等々で
  日本人の賃金と インド人の賃金が 歴然とした差があります。
  しかしながら、世界はインターネットの普及、資本・労働の移動の自由の進捗で
  流動性は かなり高まってきました。
  これは 資本主義が常に資本の最大化、最適配分化を追い求めていった結果の必然です。
  資本主義は 資本・労働・貨幣価値・教育其の他の歪みを利用した「裁定行為」だからです。
  つまり 全世界の人間が 「均一化」に向かおうとしているわけです。
  これは 「富める国」は 貧乏になり、貧乏な国は「富める国」になることを意味します。
  資本の流動性が高まれば、賃金の安い国で 安い製品を製造し、利益を得ようとします。
  労働の流動性が高まれば、賃金の高い国で 高い労働性を提供しようとします。
  教育の流動性が高まれば、頭のよい人材は 世界のいたるところで見つかるようになります。
  つまり、日本からみれば、グローバル化は 「衰退」を意味するところになるわけです。
  資本は 発展途上国に流れ、労働は 外国人の安い給料に引っ張られ、賃金が低下し、
  教育レヴェルは 世界最先端から 脱落することとなります。
  では、どうすればよいか? 難問ですが、
  結論として言えるのは、 自国にとって都合の悪い流動性向上を阻害する方向性を採った国が 
  「勝つ」こととなります。
  ドルに強制的リンクしている中国は 「繁栄しているにも拘わらず、人民元を安く維持して
  繁栄を継続する」し、 資源を輸出制限することによって、流動性を下げて、国益を
  守ります。
  自由貿易主義は 常に保護主義の脅威にさらされているのは、なぜかというと
  「自分だけ保護主義を貫き、 其の他の国に 自由主義を強いること」に成功すれば、
  確実にその国だけ 繁栄することができるからです。
  だから 保護主義の誘惑は 強大なわけです。保護主義とは流動性の意図的な阻害です。
  ただ、また他方確実なのは、「全員が保護主義に走れば」 全員が破滅するということ
  もまた事実です。
  このジレンマの中で、日本という「富める国」が衰退を避けるのは 至難の業ということです。
 2009年11月27日
  (資源は誰のものか)
  先日、日本経済新聞一面に 米国・EUが中国の資源商品に中国政府がE/Lでの制限
  及び輸出税を付加することにより、自由貿易を阻害しているとしてWTOに提訴した
  という記事が載りました。マグネシウムも対象に含まれているとのことで、希土類その他
  中国が世界市場に多くの割合で供給している商品が多く含まれて居ます。
  中国政府の意図は、資源覇権を握った商品において、世界市場への中国政府のコントロール
  を画策し、中国人民のための資源保護政策であることは明白です。
  他方、米国・EUは 自由貿易により 資源は公平に配分されるべきとの自由主義的立場
   から、WTOに提訴したものであります。
  これには、根本問題として 「資源は誰のものであるか」が内在しております。
  国家は国益を考えて行動するとしますと、中国政府は中国人民の現在及び将来の生活
  の向上のためには、中国国内のみならず、世界の資源を中国のために確保するという
  国益があることは明らかで、ましてや共産主義計画経済ですから、WTOへの提訴は
  不服でしょう。さりとて、中国は輸出貿易立国でもあるので、全く無視はできないでしょう。
  他方、米国・EUが代表するところの 自由貿易にて完全に商品の流動性が確保されたら、
  資源は 市場経済での「価値論」で決定され、より高いお金を払える人々が手にする
  ことになります。
  国益での保護主義と 自由主義での市場経済 どちらが正解でしょうか?
  これは どちらも不完全といえるでしょう。
  自由主義は 文字通り「自由」を最大の価値においていますが、人間の平等は確保できません
  食料に例えれば分かりやすいでしょう。タイやミャンマーで米が生産され、自由貿易にて
  輸出制限が全くなければ、最大の価格をつけた人々(例えば日本)が手にすることに
  なります。そして、ミャンマーの貧困層は 餓えることも結果としてありえます。
  これは「健全か?」といえば、誰しも健全とは言えないと理解できるでしょう。
  では、逆に100%保護主義がよいか と言えば、それも明々白々で 
  資源・食料を独占している国が 生き延びて、資源食料がない国家は滅びることになります。
  すなわち、両方とも100%は 必ずしも正解とは言えないわけです。
  では どこに価値基準を設定すればよいのでしょうか?
  それは、大変難しい問題です。国益がぶつかれば、最終的解決手段は今のところ
  戦争しかないわけです。
  従い、保護主義は自動的に否定されます。
  では、完全自由貿易は 最高のシステムかと言えば、上記食料の例で分かるとおり
  それも現実的には批判されるでしょう。
  結論から言えば、資源・食料は 「誰のものでもない。人類共通の財産である」ということです。
  たまたま中国に偏在しているマグネシウム・希土類は 人類が平等に分かちあうべきで
  たまたま米国に偏在している食料は 人類の生存のために公平に分配されるべきです。
  現実は? 全く異なりますね。誰でも国益を優先しています。自国の人民を優先しています。
  WTOへの提訴も 中国にある資源を 「一番高い価格を提示したものが自由に使うべきである」
  という論理で 米国・EUは主張しているわけで、マグネシウムを中国人民が10%も
  米国・日本より安く買っているのは 不平等であると言っているわけです。
  突き詰めて言えば、世界中が自国主義を主張しているだけとも言えるわけです。
  2009年6月26日
  (中国の無計画経済)
  最近のマグネシウム事情を通じて、中国政府の意図、中国経済の行方、を少々論じてみます。
  現在の生産能力は180万トン・年。それに対し 世界需要は40万トン程度に減少
  当然、相場は大暴落でコスト割れ、にもかかわらず、新規投資案件は10万トン規模での
  案件が進行中。
  これは GMの倒産、トヨタの過剰生産設備が250万台 とも言われ、自由主義経済体制では
  「いかに過剰設備を作らないか」が最も生産会社の経営としては重要であるにも
  拘わらず、中国マグネシウム(アルミニウムでもそうであるが)産業は まるで
  180万トンの 生産能力は無視しているかのようである。
  日本人としては理解を超えているが、中国計画経済としては 下記の理由が挙げられる
  ようである。
  あ)「投資」そのものに価値がある。資金がそこに投じられることにより、中国の資産国力が
    上がるわけであり、それを拒む理由ない
  い)とにかく経済成長 8%は国家の至上命題である。そのためには無謀とも言える
    政策でもOK。60兆円の経済支援は、中国の内在する貧困、格差の解決には
    不可避である。経済成長には 投資、消費、公共投資 ありとあらゆる行為が必要で
    たとえ無駄と分かっている 「穴を掘って、また埋める」行為も雇用創出という観点
    からは有用
  う)地方政府は 相互間で権力闘争、共産党の出世階段を駆け上がるステップであるため
    その地方省が 潤えばよいとの官僚の論理もある。
    世界経済には明らかに不要な投資でも、その省の雇用、経済に例え一時的でも
    有効である投資は進める「計画経済」が存在している
  え)ゆえに、全体としては資本主義、市場論理を無視してでも巨大投資をする環境に
    中国はあるといえる。いわば 計画経済下での「無計画経済」「非市場論理経済」が
    行われている
  存在しない需要に対しての生産設備の正当性は 資本主義ではありえないが
  「需要の前に生産あり」のマルクス経済と考えれば、納得できる。
  市場論理による資源の最適配分という 論理は 中国の場合、当てはまらないと
  これからも考えるべきであろう。
  しかしながら、日本でも国が介入した事業には、このような論理での無駄の例を
  枚挙することは容易い。予算を消化するために、毎年2月3月に無駄な道路工事を
  行ったり、雇用保険予算が「余っている」との論理で、無駄な箱物をグリーンピアとして
  建設し、30億円の建物を結局、破棄、ないし民間に1千万程度で払い下げたり
  多くの「一時的雇用創出」には貢献してきたのも日本政府である。
  結果 800兆円の借金が残っている。中国は 「資源」という観点からその潤沢な資金を
  市場論理を無視して投資しており(リオティント、ライナス等々)最後に勝つのは
  (資源覇権として)中国であると 思うと、資本主義の限界も露呈し、
  どちらが優秀な制度かと言えないとも思っている
 2009年6月3日
  (信用の需要・供給、収縮・膨張)
  信用創造も貨幣(貨幣機能)の供給と需要によって膨張(供給過多)
  収縮(需要減、供給減)が起こるわけですが、実体経済と信用創造・収縮は13)のように
  密接不可分な関係があるにも拘わらず、信用膨張とその後の信用収縮は実体経済とは
  無縁に始まりました。信用供与の基本的問題点は、需要(金を借りる・信用をもらう)主体が
  需要を作り出すわけでなく、亡霊信用創造に於いては
  供給者(銀行、証券、OPTION商品、クレジット会社等々)が
  自ら「需要を作り出す主体者、権利者」であることが最大の問題点であることです。
  実体経済での 需要は 資金の借り手が原料を仕入れたり、製品を販売したり、設備投資を
  するために 「金が必要」との需要の「意志」が明確に存在し、その需要(かりに100万円)
  を供給者(銀行等)に供給依頼するのが通常です。それに信用を与えるかどうかは
  供給者(信用の売り手)が判断するわけで、これは 商品売買と全く同じ信用供与の考え方
  です。
  しかしながら、亡霊信用創造は、例えばサブプライムローンを例にあげると、
  一個人の住宅ローンであれば 個人(需要)と銀行(供給)の相対取引で信用創造がなされる
  のに比べ、住宅という物権を 細分化して 「総合債権」として 変質操作することによって
  需要側と供給側の 信用創造過程が 同一主体が一体化してしまうことにより
  任意の「望まれない」信用膨張が起きます。同一主体であると、供給が豊富であればあるほど
  売り手の利益が拡大し、需要を恣意的に操作可能であればあるほど 信用創造は拡大
  します。つまり無限の信用創造が可能となるわけです。
  信用は 需要ニーズ(上記例での実態経済での100万円)の「後に」「付随して」発生
  すべきものであるのに、亡霊信用創造は 需要ニーズ(自ら設定できるので)の「前に」
  「意図的に」発生可能なわけです。
  実態信用ニーズがバブリーに上限を迎えてしまっても、さらに儲けたい信用創造主体は
  「本来借りたくない」「本来返せない」需要も無理やり自ら創造して 亡霊化しつづけ、
  終焉を迎えた姿が昨年のリーマンショック、米国の過剰消費構造崩壊だったわけです。
  2009年3月10日
  (信用創造、信用収縮 ミニユニーク経済学)
  昨今の不況は過去数十年には類をみない信用収縮に見舞われているからですが、
  その前には、米国の異常なまでの信用創造があったわけです。
  さて、一般的経済学に言われている信用創造、信用収縮、マネーサプライ、の用語解説
  は別途皆さんで勉強いただくとして、今回の金融危機での信用収縮はコントロールできたのか
  を論じてみたいと思います。
  結論は「コントロール不能」であったわけですが、ではどうすれば良かったのか?
  信用量のコントロールは一般的にマネーサプライのコントロール(日銀を始めとする中央銀行の
  貸出量の量的規制等)が代表的手法ですが、現代のように 信用創造の主体が
  あまりにも多様化している場合は 中央銀行ー都市銀行の貸し出し規制・貸し出し緩和の
  方法では 信用そのものの創造コントロールはできないでしょう。
  GNPが300兆円と仮定し、GNP(付加価値の総和)が円滑に資本回転するためには
  実体経済の資金供給量と資本回転と流通過程の把握で 大まかな最適信用量が
  計算できます。農業製品は 生産ー流通(2-3社)−卸ー小売ー消費者で 5−7回転
  工業製品 原料ー半製品ー部品ー完成品ー卸ー小売ー消費者で 同じく5−7回転
  建設も 原料ー半製品ー部品ー完成品ー卸ー小売ー消費者で 5−7回転
  流動性(liquidity)が 70%程度とすると(手元流動性の滞留・歩留まり)
  実体経済では GNPの10倍の信用創造があれば、事足ります。
  つまり約3000兆円。他方 貯蓄・投資・資本の側での議論でも
  「古代の資本主義」では 貯蓄はほぼ 投資に回りましたから、その信用創造は
  貯蓄ー銀行ー貸し出しー生産・流通主体の手元流動性 とのシンプルな図式であれば
  4−5回転ですから、300兆円の経済の金融信用創造は 1500兆円規模で足りたのです。
  合計  4500兆円が 適正規模 と計算できました。
   これが古典派の資本と貨幣流通量の関係です(ものすごくシンプル化しています)
  ところが、昨今の金融工学で 本来の物権を債権化して 「商品化」してしまう行為により
  その数十倍・数百倍の信用創造がなされてしまっており、
  貨幣(現金および預金)などでは把握しきれない亡霊信用創造が経済を揺さぶることに
  なってしまったのです。
  世界の株価は1年で 2500兆円失われたと言われていますが、これも実体経済の
  信用創造で留まっていれば(日本で4500兆円)このような事態にはならなかったわけです。
  亡霊信用創造が その10倍としたら 50000兆円(5京円) これは恐怖です。
  信用収縮を恐れ、解決するためには まず「亡霊信用創造」の量的規制の経済学を
  確立すべきでしょう
  2009年3月3日

 
  
(1年年次決算 は 諸悪の根源)
   リーマンブラザースの破綻、トヨタの2兆円黒字からの赤字転落、資金繰りのための粉飾
   経営者の場当たり、保身主義、長期的視野の欠如、投資の躊躇、株主のための超短期経営方針
   これらは、根源は「自分のため」である経済行動が原因ですが、その悲しい資本主義経済でも
   制度を見直せば、BETTERな運営ができるのでは、と思い至り、
  「会社決算を4年、最低でも2年」としよう、と公に提案します。
  米国大統領は4年の任期であるが、会社経営最高幹部(社長)に例えれば、社長になるために
  1年以上人事・株主に訴え続け、任期最後の6ヶ月は社長の任務が機能不全になっています。
  衆議院議員、知事も4年、結局会社経営評価も4年が「正常」であるべきで、1年で結果を
  求められる会社決算制度は 制度自体に欠陥があると思われます。
  1年で結果を出すために、財テクに走ったり、業績維持しないと自分の給料に跳ね返るから
  粉飾したり、株主からの突き上げを避けたりします。
  4年決算制度は 日本全体、世界全体、次世代のため、という視点をすこしでも経営者が
  「現実」として考えることができ、上記トヨタのように 過剰投資からの損失を
  4年であれば、防げたとも思います。
  一方、税収制度は 半期毎の 「所得税仮払い」制度も今もありますし、欠損の繰越制度も
  今もあるわけですから、税収減の懸念は 管理監督をしっかりすれば、防げるはずです。
  年度決算の低迷から 3月期決算でのキャッシュフローを 「異常に」抑え、ゆがんだ経営を
  することがあとを絶ちません。「在庫を3月決算までに絞れ!」と
  命令が出れば、わけも分からず、狂信的に在庫削減に皆が一斉に動き
  自動車メーカー、部品メーカー、中間原料、原料、商社一斉に同じ行動を取ります。
  しかも、みな今年3月決算数字の改善に必死です。そんなことも4年のスパンで いけば
  防げるでしょうし、慌てないので大丈夫です。結局のところ、全ての、
  経済の波は 人間の異常な行動から起こるのです。1年の波を人間自ら作り出している
  現在の状況は、人間の生活向上という概念からは、本末転倒の経営姿勢です。
  どうですか?議員立法するよう、働きかけしませんか?
  2009年2月6日
  
  
   (資本主義と共産主義、自由と平等、性悪説と性善説)
   現代日本は資本主義、自由主義の経済政治体制を採用している。昨今、企業不況
   から非正規雇用の方々の解雇が相次ぎ、企業の社会に対する姿勢が問われて
   いる。私は過去も資本主義の内在的特質として 「人間の欲」の原理を述べてきた。
   資本主義である限り、不況になれば、企業存続のためには雇用調整は「当然」で
   あって、労働者は最悪解雇の運命を受忍しなければならない立場に置かれている
   のが資本主義であると申し上げてきた。資本主義は企業活動、職業選択、
   幸福の追求等々のあらゆる自由が前提である。富の追求、物質的幸福の追求は
   人間の飽くなき欲求動機を利用している。労働者・被搾取農民は過去その理不尽さに我慢できず、  
   マルクス理論を思想的よりどころにして、共産主義革命を起こし、自由を捨て
   人間の平等に最大の価値を置いた。結果失敗した。原因は簡単である。
   人間は欲を捨てられない動物であるからである。共産主義が成功するためには、
   人間が欲を捨て、他人への奉仕・愛で活動する「完全者」になりきらなければならない。
   それが不可能であることは、ソ連で証明し、中国共産主義も集団経済を捨て、
   私有企業・私有財産を認めて、人間の活動の源泉は「欲」を利用しなければ
   成り立たないと結論したからである。
   資本主義も不完全である。
   チャーチル英国首相は、
   「民主主義は最悪のシステムであるが、それに勝るシステムはない」と言ったが、
   それは、日経新聞1月6日朝刊に東大教授も上島と同じ問題意識を論じて
   掲載した論文に引用されているが、
   全く私と同じ考えである。
   「資本主義も最悪のシステムだが、人間が人間である以上、非完全動物の
    行動原理を利用する資本主義に勝るシステムはない」
    と言いたい。
   近代資本主義における労働者は道具であるのが「資本主義」であるが、
   では 労働者は 本当に「道具」か
   産業革命時代のイギリスは 確かに道具であった。
   チャップリンの批判は 英米に於いての身分の固定化、貴族・上流階級の
   イギリスでは当然のこととして労働者は永遠に労働者で、資本家は永遠に資本家
   という図式であった。しかしながら、
   現代日本では 労働者は恒久的な道具ではない。本人が道具に甘んじていれば
   道具にされるだけであるが、資本の論理が欧米に比較して弱い日本では、
   「大家族主義」「終身雇用」「従業員株主制度」等で 資本と労働の一体化が
   図られてきた。
   大多数のサラリーマンは 会社に「道具」として入るが、そのうちの1割は
   ある時点で 経営者に変化する。
   資本と  経営の分離 資本の軽視 は ある意味 労働者と経営資本の対立
   を緩和している 「折衷案」としての理想形かもしれない
   その意味で、かつての日本経済システムは「資本主義の理想」とか
   「自由主義的共産主義経済体制」と呼ばれてきた。しかしながら、その体制に於いても、
   労働者を救済する手段は 企業自身には存在せず、社会主義的政府行為しか
   不可能である。その方法は 徴税による「富の再分配」であるが、
   それにも限界がある。政府は人民の税によって公共財(外交・防衛・教育・インフラ)を
   運営するのであるが、貧困への救済は 減税(無税)以上の手段としては
   「生活保護法」による給付金、年金しか出来ないのである。生活保護法は
   人道的見地から制定された法律であるが、誤解を承知で述べれば、
   貧者を多数派にしないための資本主義の矛盾の緩衝材ともいえる。
   もともと 政府自身が富を生むことはないので、富を人民に与えることは本来
   不可能である。言い換えれば、マイナスの税金制度は論理的に無理である。
   もし、富の再分配をそこまで 行えば、それは資本主義を放棄し、
   強制的「平等主義」である、共産主義になったも同じだからである。無理やり富の
   再分配を行う方法はあるが、それは「赤字国債」である。それで貧困を救済する
   ことも可能であるが、現実は建設業者の富をさらに潤すだけの結果に終わっている
   のが歴史であり、800兆円の政府の借金である。それを貧者に一時的に廻す仕組み
   には、政治体制としてなっていない。自民党も民主党もそれをやっては政権を
   取れないからである。貧者(失業者)は政治力もないし、幸いかなまだ少数派であるからである。
   もし貧者が多数派になったときは、上記の共産主義革命が起きる。
   公明党が提案した定額給付金は 税金を全く支払っていない低所得者に対しては
   言わばマイナスの税金制度であるが、一人¥12,000程度であれば、それは
   生活保護にも劣るので、効果は無意味といえる。
   斯様に、資本主義の矛盾はしばしば不況時には露呈する。
   不況は結局富裕層にも 大きな影響を与えることは、富裕層自身も認識しているのであるが、
   自らの財産への欲求・保身への切望を捨てられることも、また不可能であるので、
   恐慌が起きるのである。
   失業者の氾濫は、犯罪の増加、社会不安、社会意識の荒廃をもたらす。
   2009年は世界の資本主義の社会主義化(富の強制的再分配)が必然であろう。
   2009年1月5日、2009年1月7日加筆

  
  (政権交代と 人類の熟成度)
   昨今の日本の政治で自民党の混乱、民主党の台頭で、にわかに政権交代が
   騒がれています。人類の歴史で政権の交代が流血なしに、かつ頻繁に行われるように
   なって まだ非常に歴史が浅いし、まだほんの一部の国だけしか、平和的政権交代が
   行われていません。過去、政権交代は 戦争内乱、暗殺、軍事クーデターなど、
   決して平和裏に行われてきませんでした。
   徳川幕府までの日本も 政権交代はすべて「いくさ」「クーデター」という形式を
   採ってきたし、世界も民主主義が確立するまでは、全く平和裏の政権交代が
   ありませんでした。政権は 「権力」の最大の象徴です。
   人間の最高の欲である、支配欲を満たす最大のものです。
   北朝鮮、中国共産党は 言うに及ばず、日本の自民党一党の数十年の歴史も
   支配欲、権力欲の魅力に勝てない人間が ただ自分の欲のために政権に固執している
   ために だらだらと政権交代がなされないまま来てしまいました。
   マキャベリ曰く「権力はそのものの特性、持続によって 腐敗する」。
   権力それ自体、また権力の長期保持が人間を変質させると言っています。
   だから、人間が変質して妙なゆがんだ政治になる前に、
   法律で自動的に個人を政権の座から、追放しなければなりません。
   長期政権そのものが悪なわけです。
   大統領は4年、日本の衆議院も4年、知事も4年を任期と定めているわけです。
   政治は 本当は人民に奉仕するために存在しているのですが、
   その考え方を身にしみて 実行している政治家は世界中見渡しても 
   非常に数が少ないと思います。人類の熟成度は いいかえれば
   「政権に対してどれだけ その中枢に居る人間が軽く考えられるか、執着しないか」
   かも知れません。固執するような、強大な権力であればあるほど、
   執着からの決別をしなければならないわけです。
   会社もそうで、人間、社長を30年、40年やっているような会社はまず、
   それ自体が活性を奪うことになり、社員は息苦しさを増すばかりです。
   公務員もそうです。
   官僚が自分の保身を考えた瞬間、官僚による行政は腐敗するわけですが、
   官僚が終身雇用である日本のシステム自体がもう限界であるわけです。
   政権に対する 人間個人個人の執着を捨て、「国民への奉仕」が100%になった瞬間
   政治は激変するでしょう。
   その意味でも、政権交代は人間の欲がある限り、国民の義務でもあります。
   2008年12月28日

   (商品相場と資本主義)
  最近の経済情勢は、資源高騰による経済停滞が顕著化して、アダムスミスの所謂「みえざる手」
  が働いて需給の急速な修正局面を迎えています。
  これだけ資源が高騰すると 9での「富と富の分配」でも書きましたが、十分な購買力を備えている
  富裕層以外は消費を削減せざるを得ないのは自明の理であり、富裕層は人口的にも世界の1割が
  せいぜいであるので、旅行、自動車、ぜいたく品(家電製品、高級衣料)などは真っ先に
  影響を受けるわけです。
  自動車販売が10%も20%も落ち込めば、それに関連した石油製品、鉄、非鉄金属、ガソリン
  レジャー産業などが 軒並み影響を受けます。
  今年初めからの異常相場がまるで「なかったかのように」鉄スクラップ、非鉄原料など先行指標は
  8月に急落し、富士山以上の急曲線を描いてもとの価格まで 戻っております。
  やはり、「異常相場」は「異常」だったわけです。
  では今後はどうであるか。中国やインドが急成長したのはその構造的な「安さ」すなわち
  原料の安さ、労働力の安さ、物価自体の安さに依存していたのですが、原料高騰は
  その全てを打ち砕こうとしています。
  その証拠が 中国株が50%近く下落し、インド株も同様であることで実証されています。
  (日本はせいぜい10−20%の下落に対し)、ユニクロは中国一辺倒から 「脱中国」計画を
  先日ぶち上げましたが、東欧、ベトナム、タイ、マレーシア、トルコなど周辺諸国への分散
  がこれから ドンドン進むことでしょう。
  その先にあるのは、やはり「平準化」です。一つの労働価値・サービスに対して
  高いところから安いところへ向かうのもいずれ限界となるわけです。
  地域的格差は縮むー自国内格差は拡大する という力学は常に世界中で作用するので
  最終的には、その職種自体の「労働価値」がいったいどれくらいあるのかに帰結するでしょう。
  マグネシウムも 究極は マグネシウム自体の「本来価値」に集約され、シリコンも同様
  ガソリンも また同様でしょう。
  その「最終価値」は誰にも定義できませんが・・・・
  2008年9月4日
 (富と富の分配)
  富とは何か?これは深く、永遠のテーマである人間の幸福とも関連していますが、
  とりあえず経済的観点だけ論じれば、世界のGNPの合計でしょうか。すなわち全ての
  人間が生み出す「付加価値」の総合計と定義できると思います。
  世界の人類が皆平等に富(付加価値)を分配うけていれば、日本・米国などは著しく現状より
  も富を失う結果となるし、アフリカの最貧国などは 今まで経験したことのない豊かな生活を
  得る結果となります。現実は 富は著しい不平等の元で分配されております。
  分配方法は 現在のところ資本主義経済論理が主流ですが、最近では8)で2月25日に書いたとおり、
  国家資本主義、覇権主義の下に、違った意味での不公正な分配が横行し始めました。
  地域偏在、階級格差偏在、人種間偏在、年代別偏在などさまざまな歪みが富の分配には
  ありますが、最近の先進国から資源国への富の著しい分配率の変化は、換言すれば
  「労働・生産への価値配分」から「持てるものへの価値配分」と言えます。
  これもある意味搾取かも知れません。富は労働・勤勉への対価として分配されるのが
  正当な社会と思いますが、「持てるもの」は勤勉とは無縁で「先天的に付与」された立場です。
  日本はかつて その「先天的に付与」されていない資源確保のために、地域偏在(日本は不偏在)を
  解消するために戦争をしかけました。結果、より強力な存在(米国)に敗れ去り、また前の
  持たざる国に戻りました。国別の分配のイメージは
  11)先進国 22)途上国 33)資源国 44)最貧国  と分けるとすると
  国民一人当たりのGNPはひとつの重要な富の尺度ですが(購買力平価をどうするかは除き)
  実感としての富の分配のイメージは、かつては
  先進国 7割、資源国 2割、途上国 8%、最貧国 2% でしょうか。
  最近の資源高で それが
  資源国 5割、先進国4割、途上国 9% 最貧国 1% てな感じです。
  ここで重要なのは、「最貧国」は日本国憲法でいうところの「健康で文化的な」最低限度人間として
  ふさわしい生活水準といえるだろうか ということです。
  飢餓で毎年子供たちが数十万人飢え死にしている現状は、とても富の分配を受けているとは
  言いがたい。つまり最貧国への1−2%の分配は 「非常にゆゆしき」事態であるといえます。
  途上国の8−9%の分配は かろうじて 「人間として生活できる」水準といえるとすれば
  今までの先進国は 約7倍「ぜいたく」していたことと言えます。
  資源国は2倍の贅沢だったでしょう。それが、 今は資源国の「贅沢さ加減」が 7倍から5倍に
  低下したのです。でも人間は一度贅沢を覚えたら、「低下」することが耐えられないから、
  大騒ぎしているというのが 現実でしょう。
  換言すれば、人類の平均からすれば、日本の今は「全然OK,すばらしく幸せ」です。
  資源国は世界の富の半分を得ているのですが、それは極論すれば「不労所得」です。
  たまたま、地球のある地域を占めている国家の土地に、たまたま石油、鉱物資源があっただけです。
  全然威張れません。人間は欲の塊ですから、「まだまだだ」と主張しているのですが、いずれ
  富の均衡という真理に直面すべきで、資源の価値は地球の一部ですから、全人類が平等に
  分配されるべきものと思います。
  富の階級格差偏在に関しても、上島は 相場グラフの欄の下に「草稿」として述べているように
  これも難しい問題です。なぜならこれは人間の煩悩だからです。階級欲、名誉欲、地位欲、金銭欲
  能力の差、ねたみ、などが絡んでいるからです。詳しくは「草稿」を参照下さい。
  2008年8月1日
  
  (日本の将来像は?)
  最近の資源覇権、途上国の資源外交、大国の資源争奪戦を見ていると、日本の将来へは
  私は楽観論には立てない気がしております。
  日本は21世紀には 「大国」(少なくとも経済的に)の地位から 徐々に滑り落ちていく
  運命にあるのでしょうが、その「落ち方」には十分配慮しなければならないと考えます。
  19世紀は英国、20世紀は米国、21世紀は中国・インドが 経済的大国として君臨するでしょう。
  日本は20世紀の後半50年は 米国に次いで2位の経済大国でした。
  21世紀には ユーロが単一経済圏(通貨・交易)に完全に移行したわけですから、欧州大陸を
  ひとつの経済単位とすれば、
  あと20年もすれば、日本は
  米国・ユーロ・中国・インド・ロシア・に次ぐ規模に凋落することは予想の範囲でしょう。
  日本の将来像は 米国のような「軍事大国」でもありませんし、中国のような「経済覇権」でも
  ありません。環境を重視し、GNPならぬ GNH(gross national happiness)を目指すべきでしょう。
  日本人の生活指標は欧州諸国を範に組み立てることが望ましい方向性です。
  日本の将来モデルは英国であると言われて久しいです。
  英国は19世紀の覇権者でありましたが、現在は「際立った」軍事・経済・文化的覇権は
  ありません。「超大国」からは「落ちました」が、
  しかしながら、旧植民地時代の威厳・繁栄を21世紀の今も保っています。
  英国は実は 「隠れた権益」を非常に多く所有しております。
  11)シティーの金融街
  22)多くのパックスブリタニカ諸国(豪州・ニュージーランド、南アフリカ)
  33)世界的資源権益会社
     石油、鉄鉱石、非鉄資源   のBHPビリトン、リオティント、BP,ロイヤルダッチ
           アングロアメリカン、等々例を挙げれば 非常に多くの権益が
       「英国権益」です。
  翻って、日本はどのような権益を有しているでしょうか?
  英国は自国では資源はありませんが、かように非常に多くの権益を有しています。
  日本は太平洋戦争後、経済「資源」覇権を奪われていたわけではありませんが、露骨な
  やりかたは避けてきました。優れた労働性・勤勉さ・高度な技術で「無資源」ながら、
  高度経済成長を遂げ、発展してきました。
  しかしながら、眠れる巨人である中国・インドが目覚めてしまった今、
  日本の優位性が さまざまな方面で 失われている現状、「無資源」の危うさが
  石油・エネルギー・レアメタル・鉄鉱石交渉などあらゆる方面で、脆弱性を露呈しております。 
  1950-60年代から総合商社が資源権益確保で奔走し、石油DD取引、穀物メジャーとの
  競争、鉄鉱石・非鉄鉱石・等々の実績を上げてきましたが、ここに至り、
  総合商社のみの権益確保では不十分な状態となっております。
  BHPとリオティントの統合案件は 数十兆円の話です。
  アルキャン買収、中国アルミの権益確保の動きなども数兆円以上です。
  アルコアとても例外ではない状況です。
  総合商社はせいぜい 数千億円までが精一杯であると考えれば、「国家資源会社」を
  保有している 英国・豪州・中国に後塵をはいすることは明白かも知れません。
  英国を模範とするなら、もうすこし 30年40年を見据えて、行動を起こすべきでしょう。
  その前提での、環境保護、GNHの追及かも知れません。
  2008年2月25日
  (CO2排出権取引)
  最近CO2の排出権取引が盛んです。これも大変興味深く見守っています。
  CO2の排出は経済成長の結果、どうしようもない地球破壊の産物ですが、それを
  「経済論理」で解決しようとの試みが、いかにも資本主義らしい動きです。
  大いなる矛盾を抱えています。京都議定書に加盟していない国に「目標削減量」が存在
  しないわけですから、「削減」概念自体がおかしな定義です。
  ただ、「現状より削減」できれば それはそれで 「少しは」意義あるものですから、
  やらないよりやったほうがまし、と言ったところでしょうか。
  理念として 日本も欧州も京都議定書を批准したのですから、それらの諸国は批准しない
  国々よりは ましでしょう。米国は最大の身勝手な国家とも言えます。
  ロシア、中国、インドなどの大国では 「自分たちは先進国的繁栄を享受していないので、
  それを享受してから 考えるべきであり、今は参加しない」との論理です。
  それも一理あるかも知れません。米国・欧州・日本並みになってから削減を考えるのが
  「平等」であるのでしょう。
  でも もしロシア・中国・インドが 先進国に「なってから」削減をし始めたら、たぶん
  「時すでに遅し」であることは明白なので、先進国も反対します。
  これも 過去述べてきた「人間の欲」の突っ張りあいです。
  で、CO2の排出権取引は人間の欲を捨て去るのは「不可能」なので、妥協の産物として
  考え出されました。
  環境保護、省資源に向かうものであれば、どんなにコストがかかろうが、それを商品化して
  しまえば、結果として全人類の生存に貢献するであろうとのセカンドベストでしょう。
  所詮、金(かね)は 人間の編み出した産物ですので、どんなに コストが高かろうが、地球としては
  全く影響ありません。どんどん進めればいいのです。
  石油を削減しなければならない局面であれば、人間の理性が働かなければ、経済論理で
  解決するしかありませんが、そのときは たぶん 1バレル$200以上になって
  皆が自動車に乗るのをやめるとか、電気を使わない生活に戻るとかしなければならないでしょう。
  昭和30年代の日本は現在の日本の石油消費量の 5分の1だったそうです。
  そうすれば 1995年の目標値どころか 一挙に問題解決できます。
  でも、皆さん その生活に戻れますか?
  2008年1月4日
  
  (物の価格について)
  これも殊更、経済学ではありませんが、昨今の希土類の(いや非鉄全般の)急騰の根本原因
  でもあるので、思うまま、書いてみます。
  物の価格(すなわち価値)は 希少性と必要性(ニーズ)で決定されます。
  いくら希少性があってもニーズがなければ、「無価値」となりますし、
  ニーズが非常に重大でも 希少性が全くなければ それも「無価値」となります。
  例えば、「空気」「酸素」は人間が生存するのに絶対に必要ですが、つまりニーズとしては
  無限大に近く高いのですが、希少性が全くないので、人間は無料で呼吸できているわけです。
  でも、もし同じく 無料に近い「水」もニーズとしては空気と同じく殆ど無限大ですので、もし
  砂漠で 水が1個のペットボトルしかないとなると、それが必要なときはベンツ1台とでも
  交換するに匹敵する「価値」になるのであります。
  今の希土類は、昔日本人がND磁石を開発するまでは、NDは殆どニーズがなく、希少性あるものの
  「価値」がありませんでした。NDが脚光を浴びて、ニーズが出て初めて価値あるものとなりました。
  今、中国政府がE/Lを制限し「希少性」を意図的に強調して、ニーズを飛躍的に拡大させて、
  まるで砂漠での水のごとく、価値を増大しています。需要家の対策としては(もし今の価格が
  好ましくないと思えば)、ニーズを減らすか、希少性を薄めるため他の資源国の開発を促すか
  備蓄をして 希少性への焦りを緩和するしかありません。
  日本は、資源が全くないといっていい国家ですが、人間の生存に必要な水と空気は豊富です。
  生命の維持が最大のニーズですから、やはり環境、農業(水、空気、食べるもの)を忘れた
  生活は危険ですね。
  ニーズを減らせば、意外と生活は楽かも知れません。
  2007年8月10日

第三部:仕事・商売について
 (彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず)
 言わずと知れた、有名な孫子の兵法の中の一節でありますが、僕も含め多くの日本の経営者が
座右の銘としてあげる言葉であります。僕はこの言葉をよく部下に「営業とは」を説明するときに
用いますので、ちょっとこの機会にこの示唆に富む言葉の意味を述べてみたいと思います。
日本では普通はこの言葉は、
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」として知られています。
孫子は「彼を知り」としていますが、その意図するところは戦争という相対関係を
語るより、むしろ経営・経済的環境で用いるのに適しているでしょう。つまり、
彼とは、不特定第三者も含む、直接の取引先+同業他社+一般経済状況 
の全てを含むということでしょう。
この言葉は25)の「手段と目的」の混同のところでも述べた「商売をすること」とも関連しています。
 すなわち、(日頃部下に強調していることを以下引用します)
(1)商社営業の最大 唯一の目的は 「商売をすること」です 商売は上記で言う「百戦」です。戦いに
  勝利すること=契約にこぎつけることを意味します。
 それ以外の目的は 存在しません。
  それ以外の 営業活動・事務活動は すべて「商売をすること」のための
  手段です。
 
(2)で、 商売をするために日々業務に邁進するわけですが、 そこには 戦略がなければ
  その行為は無意味です。
  相手国と戦争する場合、 目的は「勝つこと」ですが、では勝つために 何をどう
  いつごろ 仕掛けるか 等々の戦略(兵法)が必要です。
  竹やりで玉砕したって、誰も喜びませんし、日本国家にとって  大いなるマイナスでした。戦略が
  なかったわけです。
 
  これ(兵法を考えること)は  構想力とか 政策立案力 とか と表現します
  それに 先見性 判断力が 付加されます。
 
(3)戦略(兵法)を立てるためには  現状を把握しなければなりません。
  業界全体の状況、 特定顧客の 使用数量、購買タイミング、購買方針
  担当者の個性、  部長の個性、 担当者と部長の意思決定の関係、
  競争相手 の 癖、出方、  すべてを知らなければ 戦略を立てられません
 「彼を知り、己を知れば(自分の立ち位置を認識すれば)、百戦危うからず」です。
 
  これは情報収集力、情報分析力、 対応力 とか表現します
 
で、営業順序としては まず(3)をやって 次に (2)を 実行して  (1)にたどり着く
順序です。(以上にて引用終わり)
という風に 商売の目的と手段を「孫子の兵法」を引用して例えることができましょう。
斯様に、「彼を知り、己を知れば」は 現状認識(周辺事情・己の内面・決意)の冷徹な実践をせよ!!
との大いなる教えでしょう。では孫子はどのような「現状」を分析せよと言っているのでしょうか?
上記 (3)は僕が必要と思っている現状把握でありますが・・・
孫子は「五事七計」  と言っています。
五事(己の立場・能力の分析)とは   「道」(指導者と部下の志を同じくさせること) 「天」(タイミング)
「地」(地理的条件の分析)「将」(指導者の器量) 「法」(組織の合理性)
七計 (敵・・競争相手との比較)
*主、いずれか有道なるーー 敵と自軍 どちらが 一致団結しているか
*将、いずれか有能なるーー 敵と自軍 どちらの指導者が有能か
・・・・ 等々 地・法・兵の 比較分析 をあらゆる観点からしなさいと言っています
(言われてみれば  全部当たり前と言えば当たり前 ですね)

ということで、今回の結論
「経済行為も戦争も   できるだけ多くの情報を収集すべきである。 業界も商品知識も商慣習も
取引相手の個性も 使用数量も何もわからないで、商売を仕掛けることは、竹やりで戦争を
挑む日本兵のようで、愚の骨頂である」 ということであろう。

2015年2月17日(弊社社員への訓示を一部引用)

(目的と手段の混同について=仕事をするということ)
人生の目的は 人それぞれ異なり、ある人は自己実現、ある人は幸福の追及、ある人は
自分の存在の確認 等々 色々であり、どれが正しいとか、間違っているとか議論するのはなじまない
性質で、結局のところ、「人生の目的には正解がない」というのが、真実かも知れません。
ここでは ちょっと狭義に絞り、 仕事をするということ、
特に商社の会社生活での 目的は何か?とのお話から始めたいと思います。
それは、 下記と言えましょう。  
「お客様と商売をすること。そのことで会社が利潤を上げ、 従業員の生活が充実・安定すること」
です。大多数の社会人は仕事をしていますが、「何のために仕事をしているか」を自問自答する場合
「仕事の目的=人生の目的・意義と同義」と考えてしまい、上記のように人生の目的は
正解がないわけですので、焦点がずれてしまいます。
ここでは シンプルに 「経済活動の目的」という意味として、理解していただき、日々の仕事
にて多くの人に見られる「勘違い」に関し、語りたいと思います。
しばしば人は、忙しい営業を日々していると 手段が目的化 している仕事ぶりに陥ってしまいます。
商社の仕事の日常行為は、
メールを見て、発信したりする。客先に電話をする、客先と面談をする、出張をする
海外出張をする(客先のアテンドも含め)、接待飲み会、接待ゴルフ、市場動向調査
新規客先開拓、サプライアー開拓、事務職員との打ち合わせ、上司への報告、成約
契約履行、資金回収  ・・・といったところでしょうか?
なにやら、色々忙しく「仕事」をしているように錯覚しますが・・・個々の行為をよ〜〜〜く、
分析してみますと・・・
* 客先と会うこと は 手段です・・ 商売をするためのプロセスですね。
* 客先に好かれる・信頼されること は 手段です・・ 円滑に 商売するためには必要ですね。
* 電話すること・ メールすること も手段です・・・  成約に向けての意思疎通の手段で
  それも 目的である 商売するためですね。
* ということになると出張すること も 手段にすぎません・・ 商売するために・・
* 報告書をまとめること、 備忘録を作成すること お礼メールを送ること  
  も手段です・・  最終目的の 「商売をすること」 のための情報蓄積行為ですね。
どうでしょうか?  結局営業マンの 上記行為(20以上の行為に定義づけされますが)
は すべて目的としての「商売するため」の手段ということになります。
昔、臨済宗中興の祖の白隠禅師が「隻手の音とは???」という公案をだし、多くの
修行僧を悩ませましたが、ある日、それを聞いた商人のおばあさんが
こういいました。
「白隠の隻手の音を聞くよりも、両手をたたいて商売をせい!!」と喝を入れました。
それを聞いた白隠は 参ったそうです。
例としては、極端でしょうが、僕なりの解釈は、 悟るためにああでもないこうでもないと
色々手段を考えますが、所詮皆 「手段という小さなプロセス」の議論をしているだけで
悟りという 「本当の目的」には近づいていないわけです。
おばあさんはそれを喝破して、ストレートに「目的」を提示したと思います。
営業マンのみなさん!!
出張アレンジ して 出張報告を することは  「仕事」の一部ですけど
単なる 手段の消化にすぎません。 それで 「俺は仕事したのだ!!!」と
思わないでください。
単なる 一つの小さなプロセスなのですから・・・・
2015年1月28日(弊社社員への訓示を一部引用しました)

(営業と心の交流)
   今回は、常日頃、部下に言っている「営業手段と心の触れ合い」について、書いてみたい
   と思います。
   営業は 結局は売り手である営業マンと 買い手である購買担当者との人間と人間の
   心の交流であり、営業能力の良しあしはつまるところ「いかに深く、真摯に心の交流を
   なしえたか」という言葉に言い換えられます。
   営業手段としては、 メール、電話、商談訪問、接待、海外出張アテンド 等々が
   ありますが、こころの交流という意味で 手段の効果を表現すると
   メールを1とすれば、電話は5、商談訪問は10、接待は20、海外出張アテンドは30
   くらいの密度の違いがあるでしょう。
   以前「説得と納得」でも書きましたが、結局は商売成立は買い手であるお客様が心を
   開いて、当方がご提案することに「納得」していただいた瞬間が商売成立の時である
   わけです。1・5・10・20・30とあえて、数値で表現しましたが、その数値は
   「心の交流の度合い」「心を開いてもらう可能性の度合い」と言い換えられるでしょう。
   100回のメールより 1回の海外主張アテンドのほうが、 心の交流を深められます。
   ここまでは お読みになっている皆さんが納得していただけると思います。

   で、当然のことながら 商売の濃さ、多さを目指すためには 訪問頻度を上げ、
   当社のことを、自分自身を知ってもらい、信頼してもらう努力をするわけですが、
   もし 不適切な発言や態度、間違った情報や 強引な姿勢等々があり、お客様の
   印象を悪くしてしまった場合も 逆に「マイナス効果」として メールの不適切さの
   5倍、10倍、20倍の悪影響もあるわけです。
   つまり、何もしないことより 悪い営業行為は 負の効果をもたらすこととなります。
   従い、極端な例ですが、 相手が忙しいのに毎日電話したり、商談のアポイントを
   適切な話題もないのに 毎週のように申し込んだり、強引に説得したり
   することは逆効果で、やってはいけないことなわけです。

   結局は 「今、お客様は何をしたいのか」「どのような状況なのか」「どのように
   お考えなのか」という 状況判断をしたうえで、最適な営業手段を
   選択することが重要と言えるでしょう。時にはお客様の時間を邪魔しない
   メール報告が一番良い場合もあるわけです。その臨機応変な選択は、
   人間力、人格の向上がなければできないわけで、電話も訪問も接待も 
   適切なタイミングに適切な内容で進めないとお客様の正当なご評価は得られない
   こととなります。商社マン生活35年、まだまだ未熟ですが、日々反省とともに
   お客様の信頼を得られるよう、 これからも努力する所存です。

   2014年8月5日

 (風と太陽、説得と納得)
   商社マン生活も 早いもので、34年目になりました。三井物産という大企業を退社し
   小さな会社を興してからも18年目となって、生意気にも部下に商売のコツなぞを
   教えなければならない立場に置かれています。
   (商売の本質と商社マンの勘違い)として2007年の8月に書いた事と重複にはなりますが、
   改めてそれは 商売の真理と思っておりますので、日頃部下に言っている事を
   書いてみたいと思います。
   童話に「風と太陽」の話がありますが、ご存知の通り、人の分厚いコートを脱がせようと
   風と太陽が競争するお話です。風は一生懸命猛烈な強風を吹きかけ、コートを剥ぎ取ろう
   とするのですが、そうすればするほど、人はコートを固く握りしめ、剥ぎ取られまいと
   して風は失敗します。
   対して、太陽は燦燦とその光を注ぎ、暖かく人を包み込み、彼自らコートを脱ぎたいという
   気持ちにさせ、脱がせることに成功します。 太陽が勝利したお話です。
   この話は まさに 商売の成功と失敗の良いたとえとして 常日頃部下に言っています。
   商社の商売は つまるところ、お客さまに商品を買ってもらうことで成り立っています。
   そのために 商社マンは 一生懸命 営業活動をするのですが、
   その営業行為は 言ってみれば 説得の連続です。
   「説得」とは  「得」(利益)を 「説く」こと で、  お客さまに対し「これを今のタイミングで
   買うことはお客さまの利益になりますよ」と 説き聞かせることですが、
   その行為自体は、極めて一方的、自己中心的行為です。
   (商社マンの勘違い)でいう、
 
   「自分は頭がいい、この商品は最高である、企画力も最高、だから必ず売れる。 と
  自信過剰な連中が多く その効能を得々とお客様に述べる輩が多いですが、それで全く
  反応がないとなると、「なぜ理解してくれないのだろう。あいつら(お客様)が悪いのだ」と
  全く商売の本質を知ることなく、いたずらに日常を過ごしています。」
  つまり、説得することに 一生懸命で相手の気持ちを全く観察していないので、失敗します
  上記の童話でいう 嵐の 強風みたいなもので、言われれば言われるほど、反発される
  だけです。

   対して、 「納得」とは 「得」(利益)を 「納める」と書きます。これは「お客さま自身が
   自分の心で満足を感じ、利益であると認識し その行為を納める」ことです。
   納得した主体は お客さまであり 営業マンではありません。
   お客さま自ら、その商品を買いたいと 心から思った瞬間が納得です。
   これは 童話でいう 太陽の働きかけの結果、 人自らが「コートを脱ぎたい」と思って
   自ら行動を起こすことと同じと言えましょう。 

  商売の本質は 説得行為でなく、お客さまに納得してもらうことで 完結するのです。
  最終的な帰結は 自分の心にあるのでなく(説得でなく)  相手の心の中に存在しているのです。

  2013年4月10日

  (仕事とは何か・自分のやりたいことと 世間が求めていること)
   世の中には様々な仕事があります。仕事とは世間に対する奉仕・貢献ですが(一言で言えば)
   そのものの存在価値は 「世間がその仕事をどれだけ求めているか」の尺度によって
   価値や需要が決まってくるわけです。
   他方、人間は個人としては 仕事の定義は「生活の手段」「生きがい」「喜び・充実感」
   という個人の自己実現であります。
   それが完全に合致しているときは 人間は生活上「最高の幸福」を感じますが、
   多くはその不一致に 悩んでいます。
   例をあげます。 私はジャズを趣味としてますが(ですから仕事ではありません)
   音楽にのめり込んで「プロミュージシャン」を目指している若者(中年も含め)は
   星の数ほどいます。
   プロを目指しているわけですから、技術的には すばらしい演奏をできる人たちも
   大勢いますが、残念なことに 「食えている」ひとは 5%にも満たないのが現状です。
   またプロでさえも、純粋に演奏そのもので「食えている」ひとは さらに少なく
   多くは 素人のレッスン相手で生計を立てて、食いつないでいるのが現実です。
   世間は 音楽を求めていますが、大衆の多くを感動させる(つまり「売れる」)
   芸術性豊かな音楽家の需要は その供給量に比べて はるかに少なく
   需要と供給の著しい不一致が あるわけです。
   誰でも、自分の能力・興味が 仕事に直結することを願っていますが、
   世間は求めていないわけです。
   野球選手の数は、 プロ野球の観客収容能力・エンターテインメントとしての集客能力
   によって決まります。 従いせいぜい 数百人がその需要です。
   プロゴルファーは  「それを見たいというギャラリー・宣伝効果」によって必要人数が
   決まります。 石川遼は たった一人のスターの出現によって その「必要人数」を
   引き上げました。 ですから彼は 数億円の価値があるわけです。
   ジャズプレーヤーは 東京・大阪・名古屋の一部の音楽ファンを魅了する程度の
   需要(それとCD購入者)ですから せいぜい 100人もいれば十分なわけです。
   ですが、プロのジャズミュージシャンになることを熱望する若者は数万人いるでしょう。
   言い方を変えれば、ジャズを上手に演奏したいニーズとしての需要、
   すなわち、 数万人のプロ志向の
   アマチュアや 数十万人の 「演奏を楽しみたい」アマチュアを教えるプロの
   需要は 多く存在しているので、所謂レッスンプロとして 音楽教室で教えるプロは
   数千人の需要は あるわけです。
   結局、これも 大衆の欲で説明できます。
   演奏を聴きたい「欲」を満たすプロのジャズミュージシャンは100人
   演奏を楽しみたい「欲」を満たす 教えるプロのジャズミュージシャンは 数千人
   という 仕事の需要に分かれるわけです。
   多くのミュージシャンは 「自分の演奏を聴いてもらいたい」という、
   夢が破れて (需要がないので) レッスンプロや他の道に進むわけです。
   斯様に「世間」とは 大衆の欲求の塊です。大衆が熱望する領域の芸術性は 
   やはり 「天賦の才能」のみが 真の意味での「仕事人」として 残るのでしょう。
   翻って、産業界でも同じかも知れません。 大衆が必要としている 製品・ソフト
   サービスを機敏に感じて 提供する能力が ビジネスマンに求められる最大の資質
   といえるでしょう。
   自分のやりたいこと は 趣味として 楽しむのが一番気楽でしょうか・・・
   2009年11月9日


  (商売の心得再考)
  下記は弊社「会社概要」の末尾に記している、商売の心得ですが、改めて読み直してみると、
  上島が体験し、下記にて書いてきたことと「全く同じこと」を言っているのには、感慨あります。
  小生も少しは(少しはですが)、偉大な先人の教えが分かるようになったのかな?
       商法は売りて悦び、買ひて喜ぶようにすべし(二宮尊徳)
  これは、当に「お客様が幸せになった結果として商人は幸せになる」との同じ意味
  「喜ぶ」という言葉は非常に深いです。売ることができてありがとう、は簡単ですが、
  自分が買うことが出来てありがとう、とか、お客様に「タックから買うことができてありがとう」と
  言ってもらえるほど幸せなことはありません。商売の究極の領域でしょう。
      
信は商人の常の道(茂庵老人)
  これは、信用がいかに大事かですが、信用さえあれば、人は生きていけます。財産なんかなくったって
  信用ほど大事なものはありません。弊社も多くの銀行にお世話になっていますが、
  銀行からお金が借りられるのもまさに「信用」以外の何者でも ありません。
  本当にありがたいと思っています
      
私欲ほど世に害を成す物あらじ(石田梅岩)
  人はなかなか「私欲」を捨てられません。西洋的資本主義は「私欲」を利用した制度と言っても
  よい訳で、それが「世に害を成す物」であれば、資本主義が悪いものとなってしまいます。
  資本主義の真髄はアダムスミスの「国富論」を引用するまでもないですが、アダムスミスの
  有名な言葉に「我々が食事が出来るのは、パン屋も八百屋も博愛心を発揮するからでなく、
  皆全て、自分の私欲、利益の追求のために行っているからである」とあり、
  その私欲が結果として「見えざる手」の役割をはたし、市場経済が機能しているのです。
  ただ、アダムスミスも同時に「市場モラル」も社会哲学者として警鐘を鳴らしており、
  その私欲は「なんでもしてよい」わけでは決してない、とも言い添えています。石田梅岩も
  全く同じ事を言っています。彼が言わんとするのも、
  人を不幸にしてまで「私欲」を追求するな、ということでしょう。公害を撒き散らすほどの
  乱開発で富をなしてもそれは「我欲」で、世の中に害をもたらします。醜い拝金主義も
  他人からみれば、人の道とは思えません。お客様、広くは世間の幸福を考えた商売が
  本当の商売であると言っているのでしょう。
      
我が身を忘れて客の心となれ(安田善次郎)
  これは、「人の心が分からなければ、商売はできない」「商売は買いたいというお客様の最終能動行為
  が完結行為である」との意味です。これも深い言葉です
      
魂を入れた値段をつける(松下幸之助)
  この言葉を読んだとき、感動しました。「値段」という概念と「魂」という概念が関連する発想は
  凡人では出来ません。松下幸之助ならではでしょう。
  お客様が「感動」「納得」など心を動かされなければ、なにもできないことと同じであると
  言いたいのでしょう。いい加減な価格設定、単なる儲けのための価格は客にはお見通しである
  心の底から、納得できるような価格を提示せよ、でしょうか。勉強になります。
      
天は善なる者に幸福を与える(渋沢栄一)
  商売での幸せはお客様から感謝されることです。「感謝」されることは、悪意ある商売からは
  絶対になし得ません。悪はいつかはその「取り繕い」がバレるものです。善を心がけ、
  善で客先に接すれば、きっと理解し「感謝」される、すなわち自分が幸福になれるという
  ことでしょう。これも「お客様の幸せを追求する」という善が「結果として」自分に幸福が
  訪れるという意味でしょう
      
商人の常に守るべきは、謙の一字(西川如見)
  これは、商社マンの勘違いで述べたように、独りよがりは自己満足にすぎず、お客様の
     幸せを願い、常に謙虚に商売すべし の意味
  ただ、これからもそれを実行するのみです。

  2007年8月14日、2007年8月15日、20日加筆
   4)(相場と人間の感覚)
  別に今更、経済学を論じたいわけではありません。ひとつ、相場に纏わる人間模様を書いてみたいと
  思います。
  相場は相対的なもので、決して絶対的なものではありませんが、しばしば、「高いなあ」と
  不満を漏らします。でも それが1ヶ月も続けば、人間は慣れてきます。
  不思議なものです。
  銅相場に例えれば、つい3-4年前はトン30万円だったのが、今は100万円です。
  3倍です。急騰しているときは、100万円は「耐えられない」価格と実感します。でも
  100万円の相場が1年続けば、それが当たり前になり、ちょっと85万円まで下落すると
  「あ!安い。今が買い時だ。」となります。
  タックは10年ー20年でマグネその他の商売を考えていますし、お客様である皆様方も
  10年ー20年で物事を考えなければならないはずです。しかし、人間である以上「感情」があり
  「感覚」があります。ただ、その感覚は時として、判断を誤らせる原因となります。
  どうしても、目先の短期的相場に気を取られ、一喜一憂します。つまり、人間は価格に
  慣れない限り、拘りから逃れられないのです。しかし慣れてしまえば、囚われなくなります。
  中国品を取り扱ってはや20年になりますが、中国品は確かに今まで「安かった」です。
  国際競争力は世界で抜きん出ていました。それで世界中の商社、お客様が中国へ集中した結果、
  中国が覇権を握る商品が数多く出てきました。で、希土類を例にとれば、今かつてない
  相場に世界中が困惑しています。それは、人間の上記の「感覚」が招いた帰結に過ぎない
  かも知れません。中国は10年ー20年かけて今の地位を獲得しました。でも資源は限られています。
  環境問題も真剣に考えなければなりません。ですから、必要最小限度の資源輸出をこれからは
  していきます。中国は「安い」という既成概念が世界の需要家が保有しているうちに、
  希土類は 「今の相場が当然の相場である」と人間を慣れさせ、他の代替品に移らないように
  しているとも考えられます。マグネも $3,000・mtとなっても、それが1年続けば、「慣れます」
  5-6年前は $1,500・mtだったことなど人間は「忘れます」。中国が覇権を握っていれば、
  ロシアもイスラエルも 「相場は高い方がいい」わけですから、それに追随します。
  相場は「慣れれば」どんな相場も おかしな相場とは言えません。
  ガソリンが ¥200になっても、銅が200万円になっても、慣れればそれが正当な「相場」です。
  2007年8月8日
  
 (商売の本質と商社マンの勘違い)
  商社は商売していかなければ、維持していけません。いや人間は何らかの商業活動をしなければ
  生きていけませんが(芸術家などは特殊です)、しばしば、商売するにあたり、商社マンは
  「世界を股にかけたい」「自分の理想とする商売を構築したい」との大きな夢をもって、働きます。
  が、しかし、本当の商売の現実は
  「商売は決して自分の思うことが実現することはない。お客様が思うことが実現する」
   のであります。
  何のことを言っているかというと、例えば、ある商品を100円で1個「売りたい」と商社マンが思ったと
  します。 さあ、売るぞ!とどんなに意気込んでも お客様が「買いたい」と思わなければ、絶対
  商売は成立しません。つまり売りたいと思っただけの段階ではそれは商売ではなく、自分勝手な
  単なる思い込みでしかありません。ですから、商売の真髄は
  「商売とは自分の思うことを実現することではない。お客様に買いたいという気持ちを起こして
   もらうことが商売である」 となります。
   商社マンは、その点で大いなる勘違いをしている人が多いです。
   自分は頭がいい、この商品は最高である、企画力も最高、だから必ず売れる。 と
  自信過剰な連中が多く その効能を得々とお客様に述べる輩が多いですが、それで全く
  反応がないとなると、「なぜ理解してくれないのだろう。あいつら(お客様)が悪いのだ」と
  全く商売の本質を知ることなく、いたずらに日常を過ごしています。
  そのときのお客様は「こいつ何をいったい言いたいのか?我々のニーズを分かっているのか」
  と思っているだけで、決して買いたいと思わないです。
  商売、商業活動は 常に「お客様が買いたいと思わせるにはどうしたらいいか」ですが、
  買いたいという心は、言い換えれば「納得した」「これが欲しい」「魅力的だ」「信頼できる」
  「心を動かされた」などの様々なお客様の感情の総合体です。
  カッコいい言葉で言えば、
  商売とは、「お客様が幸せになるようにすること」であります。
  これがすなわち、商売の極意でないでしょうか。
  自分が幸せになることが商売ではありません。お客様が幸せになる「結果」として、自分が
  幸せになれるに過ぎないのです。
  世間で言う、「お客様は神様です」「顧客第一主義」は、建前では決してありません。
  顧客がここから買いたいと思う心が商売の「最終意思、最終能動行為」ですので、
  「顧客第一主義」は当たり前で、それはイコール商売の最終帰結です。
  2007年8月3日
 (商売は自転車を漕ぐが如しである)
  自転車を漕ぐとき、特に坂道では ギアが非常に重く「たくさんの力」をかけないと動き出しません。
  そしてゆっくりと動き始めます。最初はヨロヨロと動き、油断していると安定せず、倒れたり、止まったり
   してしまいます。 ギアがlowからセカンドに入ると、少し楽になりますが、まだ油断できません。
   やっと20−30kmのスピードで快走して初めて「心地よさ」を感じます。森の中の小道を
   そよ風を受けながら走ると爽快感があります。でも多少ときどき力を入れて漕がなければ
   なりません。でも楽です。
   下り坂は自転車は勝手に走ります。今度はブレーキが必要です。ほっておけば暴走して危険です。
   漕がなくても大丈夫ですが注意が必要です。
   さあ、どうでしょう。まるで商売と同じでしょう。
   最初の漕ぎ始めは「新規開拓」です。最大限のエネルギーを営業に費やさなければ、お客様は
   感動してくれませんし、商売してくれません。とにかく自分の能力目一杯で取り組む必要あります。
   100%です。
 で、初商売にこぎつけても、油断はできません。まだヨロヨロの段階で、お客様の信頼も得られていません
   引き続き頑張らなければなりません。80%の力です。
   そしてやっと「安定商売」となります。心地よい商売関係、買い手と売り手の信頼関係が築ければ、
 商売の喜びも感じられます。でも漕ぎ続けなければなりません。50%の力です。力みすぎてもいけません
 下り坂は「油断」してはなりません。漕がなくても商売は出来ていますが、これは自分の力ではありません
   歴代の諸先輩の漕いだ歴史があるから 商売が出来ているのです。ハンドルとブレーキをしっかり
   意識していなければ「暴走」してしまいます。すなわち商売がなくなる危険性を孕んでいます。
   自転車は漕いで走っているから「安定」しているのです。
   お客様には常にコンタクトをして、ニーズを聞いて、的確に対処することが商社マンの努めです。
   商社マンはロードレースの自転車漕ぎです。
   2007年8月1日
 (商売人とは皿回し曲芸師の如くである)
  商社生活も27年もやっていると、商売人はどうあるべきかとか、つらつらと考えます。
  ある日、15年ほど前、テレビで皿回しの曲芸師の芸を見ていたら、30くらい棒を舞台のはじから端まで
  立てて並べて、ひとつひとつ皿を廻し、最終的には 全部落とさずに30皿を廻すのをみていましたら、
  「あ!これは当に商売と同じだ」と思いました。
  まるで客先が30社ある営業マンと同じです。皿はお客様です。
  大きい皿もあれば、中心が安定しない皿もあり、小さい皿もあれば、廻したての皿、ずっと廻っている皿
  イロイロです。商売には大抵「安定客先」「大口客先」「小口客先」「スポット客先」「新規開拓客先」と
  色々です。その全てがどれも重要なお客様ですが、しばしば大口客先とか 安定客先ばかりを
  大事にして、新規、小口、スポットをないがしろにする傾向が特に大手商社の営業マンには見受けられます
  三井物産時代でも、大口や安定商権を大事にし、積極的に新規のお客様に出向かない営業マンも
  いました。大口は出世に関係したり、安定商権先は自分を大事にしてくれますが、新規客先は
  時に「罵声を浴びせられたり」「無視されたり」します。でもそれをしないと(つまりコンタクトしつづけないと)
  その客先も将来 大口客先になるかもしれないのに、自らそのチャンスを捨てることとなります。
  皿(客先)が30あると、一日1社訪問したとしても1ヶ月かかります。電話も5-10社毎日しても
  話す機会は客先担当と4-5日に一度です。もしほっぽらかしたら、2ヶ月電話しない可能性あります。
  人間の心は「生き物」です。変化します。無常です。昨日の客先の心は今日違います。
  皿は「定期的に」廻さなければ、曲芸師は皿を落としてしまいます。営業マンは客先を失います。
  新規を逃します。
  迅速さ(皿を廻す勢い)、、periodical contact(定期的に廻すこと)、が客商売には必要です。
  新規客先ほど頻繁に訪問し、皿を安定させなければならないと思います。
  2007年8月1日
第四部: 人生・哲学

   (林棲期に思う)
   仏教では 生きることは苦である・・と教えます。俗世間を見渡しても、
   某国の独裁者、政治的軋轢が絶えない世の中、はたまた個々人でも 生きることに疲れた
   人たち、絶望の淵にあえぐ人々、法を犯し人生を棒に振る若者、
   或いは大金持ちになり富と名誉を手に入れても尚、幸福感を味わえずに悶々と
   日々暮らしている人・・ 皆生きることが苦しそうです。
   なぜ苦しいのでしょうか??
   やはり陳腐な言い方ですが、自我・・すなわち
   「自分の人生を 自分のためだけに生きている」からではないでしょうか。
   それでは苦しみからの解放は 「その逆」の生き方をすれば良いのではないか・・
   言い換えれば、「人生を他人の為に生きることができるとそれは、自分の喜び」になる
   のでしょう。
   仏教ではその処方箋としては 「 自我からの解放」により、 「苦」からの
   解脱が唯一の方法であると示します。己を捨てよ、こだわりを解き放て!!
   そしてその方向は 厳しい自己鍛錬に向かいます。 
   従い悟りへの道は 険しく果てしない道となります。
   しかし もっと分かりやすく 優しく 
   俗世間的な方法も提示しています。すなわち、自利利他の精神や 喜捨、慈しみの心
   つまり  「他人のために生きる」ことでの自我・没我 です。
   我々凡夫には、苦からの解放は  他人のために生きる・・・処方箋が分かりやすくて
   良いでしょう。
   若い時に好き放題自分勝手に振る舞って、自分の人生をいい加減に(ハチャメチャに)
   生きてきた
   人間も、親になったことにより人間的に成長できるのは、
   子供と言う 自分以外の人のために生きるという方向転換ができたからでしょう。
   また、商売の達人である諸先輩は 等しく「お客様本位」や「世間に貢献できる」経営を示唆し、
   人間として経営者としての 生きる道を示してます。
   さらには
   大金持ちとなり個人としての人生の目的を物理的に 120%達成した大事業家たちは
   ほとんど例外なく 慈善事業や寄付や社会福祉にその生きがいを求めます。
   それも 自分のために生きてきた人生を ある意味 「反省」し 真の幸せは 
   「他人への奉仕」にあると悟った結果でしょう。

   僕は 還暦を迎え、インド哲学で言う林棲期に入りました。
   (勝手に宣言しました)
   自分のため(社会的責任を全うするのも自分の義務でありそれも自分のためとも
   言えます)に生きる時期を過ぎ、これからどうやって人間の完成を目指す生き方をするか
   を「考える」時期が 林棲期であると思います。
   会社経営も自分以外の人たち(社員・お客様)の幸せを考えながら 方向を定め、
   仕事以外の時間も
   他人の喜ぶ姿を見る自分を 想像しながら生きていく・・・  そんな生活が理想。
   これからの人生は益々楽しそうです。
   2016年9月5日
   
   (20周年パーティを終えて・・・)
   2016年7月21日は 当社にとって、そして私自身にとって忘れられない日となりました。
   216名の参加による盛大なパーティでした。
   お礼の言葉は、どのように表現しても満足なものは見当たりません。
   本当に感謝・感謝そして 感謝です。タックトレーディング社長として
   お客様、銀行各行 そして社員に 深く礼を申し上げます。
    さて・・・ では私は今後 どのように生きたいか。。。。 
   ここでは 私の人生観、および今後の人生への思いを述べたいと思います。
   私は思うところあって、2003年5月から随筆および商売雑感を 書き始めたのですが、
   その頃は(そして今でも)
   禅の思想に影響を受けながら、商売を含めた人生を歩んでいたように思います。
   そして13年が経過し、思想的には 禅から 仏教全般、そしてお釈迦さまの
   原始仏教理念(テーラワーダ)までさかのぼり、 今は
   中村天風 の 「心身統一法」の根本原理である インド哲学 が人生の指針と
   なっております。
   インド哲学(中村天風を通じて・・という面が大きいですが)に触れてみると、・・これは
   一言では言い難いのですが、 「宇宙エネルギー」に逆らわずに生きる。いや
   人間は本来 宇宙エネルギーが備わっている(元来の気)のであるから、それを感じながら
   生きることが 重要である・・ との教えと、今は理解しています。
   肉体本位の 唯物論でもなく、 精神・宗教依存の唯心論でもない 肉体も心も
   宇宙の気・根本エネルギー から生じているので それを片時も忘れるなと 示しています。
   天風は それを感じることができれば、自ずと 健康、運気、が得られると 教示し
   人生の勝利者となれると 教えます。
   禅も 結局は インド哲学=仏教の根本原理から派生しているのですから
   心身統一 を目指しているわけです。 すなわち禅は、
   食べるときは 食べることに集中せよ!、歩くときは歩くことに集中、 仕事するときは仕事に
   気を集中せよ!と教えます。
   肉体が食べている行為をしている最中に 心が全く別のこと・・例えば
   昨日の仕事を思っていては 心身分離で、精神の安定はありません。
   「心身統一」とは 肉体に偏せず、心にも編せず、 完全一致すること・・・です。
   なかなか難しいですが、今後も修行していきたいと思います。
   私は今年還暦です。 パーティでマグネシウム協会加藤会長が 「大還暦まで生きよ」と
   叱咤激励してくれました。 そういう意味では まだあと 60年あります。
   ま、 話半分にしても 90歳まで まだ30年。 30年の時間は その「心身統一」を
   心がけて、 仕事も趣味も 余暇も旅行も 学問するのも 楽しみたいと思っています。
   インド哲学には 「林棲期」という考え方があります。
   五木寛之が 一時期その言葉を流行らせましたので、みなさんも聞いたことあるでしょう。
   家長として頑張って必死に働いた後、 子供が成人し 生計の主たる担い手を離れたならば、
   人間は林に棲みなさい と 諭すのがインド哲学です。
   現代日本でいえば 還暦から 75−80歳くらいまでが 林棲期でしょうか。
   林棲期には 家長の重責から解放され、「煩悩」や「執着」も少なくなって
   修行(心身統一の)には 適する時期という意味でしょう。
   会社の仕事は 悩みの連続ですので、なかなか心身統一の修行はレヴェルが
   高まりません。・・・高まりませんでした。これから20年、色々修行していきたいです。
   そして80を超えたら  インド哲学でいう、第四期、人生の締めくくりの 遊行期 になるでしょう。
   もう人生の大半の悩みを越えられて、 自分が宇宙と一体化できるかもしれません。
   会社は パーティでも申し上げた通り、後進に漸次 経営を移譲していく所存です。
   家長としての役目を果したと自分では思っております。今後は林棲期を 修行しながら
   (しかし楽しく有意義に) 過ごします。
    今から楽しみです。
   あ・・・ だからといって完全引退というわけではありませんので、
   これからも 酒を酌み交わしに行きますので、どうかお付き合いください。

   2016年7月27日、8月16日加筆
   
  (つれづれなるままに・・))
   お客様、中国のサプライアー、銀行の皆様がたに支えられ、弊社も18年何とか
   やってこれました。今年は娘も嫁ぎ、家では女房と2人の生活が始まっております。
   がむしゃらに突っ走ってまいりましたが、ふと気が付くと齢57、お客様の部長さまも
   銀行の支店長様も すべて年下(しかも1回り)という現実で、馬齢を積み重ねている
   自分ですが、色々感慨にふける今日この頃です。
   最近読んだ本の中で、強く印象に残った言葉があります。
   それは、
   「あなたが生まれたとき、あなたは泣いて、周りは笑っていたでしょう。
    だから、あなたが死ぬときは、周りが泣いて、あなたが笑っているような
   人生を歩みなさい。」
   *ネイティブアメリカンの言葉       ・・・・です。
   これは考えさせられました。
   みんな誰でも必死に生きていますが、最近明石家さんま が 言っていましたが
   「必死に生きている」って 自己矛盾というか、 深い言葉で
    必ず死ぬ ために生きている  というわけですね。
   小生も57歳で 人生を確実に折り返しており、皆さんと同じように いつかは
   死ぬわけですが、 はたして 死ぬときに「笑っている」ことができるか・・・
   みなさんどうですか??
   60までに 上記のネイティブアメリカンの言葉の意味を 意識しながら
   世間様に少しでも貢献できるように  自らを律してまいりたいと思います。
   2014年1月17日
     
  (時間の有限性の認識について)
   皆さんは 「時間」というものに対しどのような認識をされているでしょうか?
   時間は人類の誕生以前から存在して、地球の誕生、さらに言えば宇宙の誕生以来
   何十億年の「時間」が経過し、この先も 人類の滅亡、地球の寿命到来、宇宙の終焉(?)
   まで膨大な時間が 経過するわけです。
   時間はその意味では 「人間の想像をはるかに超える」という意味で無限であります。
   ここでは、「我々の心の認識においての時間」を述べてみます。
   人生は客観的に考えると 80年、長生きしても100年程度の ゴミみたいな時間の
   中に収まっています。その80年の間に 人は泣き、笑い、喜び、悲しみ、学び、働き、
   結婚し、子育てし、財産を蓄え、使い、病気になり、死んでいきますが、
   瞬間瞬間、人は時間にたいして 「無限」であるという錯覚をしながら生きていっています。

   何をいいたいかというと、若い頃は 「時間の有限性」などは心の片隅にも存在せず
   自分の人生・仕事・夢・生きがいに向かって、「擬似的時間の無限性」の中で
   盲目的に突進して暮らしているのが殆どでしょう。
   それが裏返せば 若いという証拠です。
   時間の無限性は 欲望の無限性と表裏一体で、 金銭・事業・出世・名誉等々に
   対して 制限を感じることなく、日々一生懸命です。

   「サラリーを倍にしたい」「社長になりたい」「工場を10個作りたい」「有名になりたい」
   数え上げたら無限です。その無限の願望が達成するのに必要な膨大な時間も無限と
   認識しています。
   ところが 人間 30歳、40歳、50歳、そして 60歳を迎えると
   無限の欲望がいつしか 急速にしぼみ、「諦観」とともに 有限になっていきます
   それは、私が考えるに、欲望が制御できたのではなく、自分の時間が有限であるとの
   認識された瞬間に 欲望が出てこなくなることでかも知れません。

   私は現在54歳ですが、独立当初の38歳では 会社の発展のため、生活のため
   xxxのため、猛烈に働きました(多くの欲望・夢とともに)しかしながら、この随筆を
   書き始めたころ2002−2003年に 時間の認識が 無限50%有限50%に変化し
   自分を見つめなおすきっかけとなり、今では時間の無限認識20%有限80%が
   正直な心の中の時間認識です。

   皆さんはどうですか? いつ時間の有限性をお感じになりましたか?
   全く感じていない人は 極めて若いか、人生に対して考えていないか、多忙すぎて
   見つめなおす余裕がないか・・・でしょう

   これは是非論ではありませんが、時間の有限性の認識は時には必要で
   資源の有限性・自然の有限性などと同様に 破滅への猛進・盲進を防ぐ心の作用でも
   あると思っています。時間の無限性の意識が永続すると、欲望の限界も認識されぬまま
   歯止めが利かない永遠の盲進にピリオドを打てず、死ぬまで頑張り続けますが、
   その「頑張り」が人間社会にては しばしば間違った方向へと進む場合があります。
   有限性の認識は やさしさを育て、人生の尊さを感じられる一つのきっかけと
   なるのではないでしょうか?命の尊さ、資源・自然の大切さ は 有限と分かった
   からこそ理解できると思っています。

   2011年3月10日

  (プロとアマチュア)
   皆さん凡そ生活するためには 仕事をして収入を確保しています。
   その意味では 皆さんが何らかの分野に於いて プロフェッショナルなわけですが、
   では 真の意味のプロフェッショナルとは、アマチュアとは 定義としては
   何でしょうか?
   一般に言われている定義は 簡単です。
   プロフェッショナルとは 「ある仕事・行為を営むことにより 主たる収入を得ていること」
   であり、アマチュアとは 「ある行為を行うにあたり対価を求めない、あるいは得ようとしない
   こと」であります。
   つまり ある行為で お金をもらうか お金を払うかが プロとアマチュアの違いです。
   では、お金をもらっている人は どのような仕事でもプロと言えますでしょうか?
   野球選手、政治家、弁護士、教師、医者、実業家、牛丼屋の店員、タクシーの運転手
   皆 収入あるわけですが、では皆プロでしょうか?
   ここではちょっと言い方をを変えて他人からの視点で再定義してみます。
   プロフェッショナルとは
   「ある仕事・行為を営むことにより 世間・他人から 対価を払いたいという気持ちに
    なるようなレヴェルに達した役務を提供できる人」
   アマチュアとは
   「ある仕事・行為をするにあたり、世間・他人から 対価を払いたいという気持ちに
    なるようなレヴェルに達していないので 自らその環境にたいして対価をはらって
    行為をすること」
   この再定義は 要するに 仕事とは何かということを言い換えたものですが、
   仕事とは 世間に対する奉仕 でなければ 仕事とはいえないということです。
   人間は生きていると同時に 世間に生かされているわけで、 生かされている以上
   社会に貢献しなければならない という義務も生じています。
   自分の役務の提供に対して もし全く世間が 対価を払いたいという気持ちになっていなければ
   それは 「自称プロ」であって 真のプロではないと思います。
   例として ミュージシャンを挙げます。 プロミュージシャンは星の数ほどいますが、
   世間から 「この演奏・この作曲に対しては 対価をはらって聴きたい・見たい」という
   感情や評価を得て生計をたてることが可能な ミュージシャンが プロフェッショナルでしょう。
   冷徹な言い方をすれば、 「自称プロ」のミュージシャンが 「俺はプロだ」と叫んでみても
   世間が 対価を払ってまで 聴きたいというレヴェルに達していなければ
   それは プロとは呼べないのでしょう。
   我々の商社業界も そうでしょう
   我々の役務・情報の提供が もし お客様から 「対価に値しない」と評価されてしまえば
   いくら 自分は商社マンだと 粋がってみても 真のプロではなく、たまたま
   商社という組織に従属している 単なる「給与取得者」であってプロフェッショナルとは
   いえないと思います。
   上記は常に 私の仕事の自戒として、肝に銘じて 働いているつもりですが、
   53歳の今でも 自分に問いかけながら 仕事をしています
   「自分は世間に役に立っているか? 自分の役務提供は 対価に値しているか?
    自分は本当のプロフェッショナルか?」
   皆さんは どうですか?
   2010年8月16日

  (人間探求教学ー続き)
   人間の最終願望が結局人間が生きているということの最終テーマ
   になるわけです。
   それを追求する学問ー教学が  名前を変えて、宗教・哲学・思想信条というカテゴリー
   になっているわけです。それを究明する角度の違いで 宗教・哲学・思想を説明できます
   最終願望
   「私は、幸せな人生を送りたい。生きがいを感じながら一生を終えたい」
   あ)哲学とは
     上記最終願望を 人間の論理・言葉で説明する学問です。
   最終願望文章の意味を 非常に詳しく論理的に解明する学問です
    「私は」を論理的に 解明すると
    己とは何か、存在とは、という 存在論
    「幸せ」とは何か   という幸福論
    「人生」「生きがい」とは何か という価値論   
    「感じる」とは何か  という認識論   の総合的論理体系が哲学と言えます。
   い)宗教とは
     上記最終願望を 文章・論理を超えて、教えようとします
    「私は」  己の存在は無だとか、空という概念
    「幸せ」  真理は内面にあり、外部(識・色)にあらず という教え
    「願望」  をコントロールする 煩悩解脱、帰依による絶対安心
    「一生」「生きる」  無常概念、生死は輪廻、刹那 を説く
   う)思想信条 は
    最終願望を達成するための 実行論を 語り、共鳴する集団が 思想家に依存し
    実践論として 世間に訴える教学

   という分類になるでしょう。
   文学は 最終願望の本質を経験論や 理想論を 具象化して 叙述する分野とも言えますし
   歴史学は 最終願望を追い求めた 過去の人間の 良い行為・悪しき事実を検証する
   学問とも言えます。
   2010年5月20日
   
   (悩むということ)
   人間生きている以上、様々な悩みを抱えながら暮らしています。
   そして、「悩むこと」に悩んでいたり、「願望・希望」が現実と違うことに 失望したり、悩んでいます。
   結果、どうやったら悩みから開放されるか という「願望」を持ったりします。
   私も 人間を53年以上やっていると、皆さんと同じように 悩み・葛藤を持っていますが、
   最近 思うに、
   「悩みは つまるところ 人間が生きるという願望がある限り 常に付きまとう」と
   考えるにいたりました。
   皆さんが生きているということは、感情や希望・夢、悩み、つまり人間が人間である証拠とともに
   生きているということです。
   恐らく、悩みや夢 を 突き詰めていくと 全て一つの文章に 帰結するでしょう。
   すなわち、
   「私は、 幸せな人生を送りたい。充実感や生きがいを感じながら、一生を終えたい」
   です。
   悩みとは 希望が達成されないことに対する 「反対感情」の発露と言えます。
   全て自分の思い通りに ことが進めば 悩まないということになります。
   でも、それは人間である以上、ありえませんので、悩むこととなります。
   出世できない、性格悪い、顔が悪い、禿げている、女性にもてない、結婚できない、
   上司とソリが合わない、仕事が忙しい、客先がそっけない、プロジェクトが上手くいかない
   金がない、生活に張りがない、 病気がちである、親の愛情が薄い、自分は認められていない
   ・・・・数え上げれば キリがありません。
   そこで ふと 立ち止まって、自己観察してみてください。
   悩みは 全て 自分の願望と 表裏一体であることに気づいてください。
   そこが悩みを解消する出発点の思考回路です。
   例えば、
   「女性にもてない」という悩みであれば、
   思考回路を 変更してみます。
   願望の帰結を考えましょう。
   「女性にもてる」−「性的満足を得られる」−「生活に活力が出てくる」−「充実感を味わえる」
   ということになって
   人間の最終願望である 「私は幸せな人生を送りたい」の言葉にたどり着きます。
   この最終願望が 人間の最大の望みであるが故に、
   それが解決できない人々の大半が 悩みを抱えることになるわけで
   宗教・哲学・思想・人間心理学・文学・歴史・等々の 「人間探求教学」が生まれる素地
   となっているわけです。
   2010年5月19日
  
  (大人とは何か)
   大人と子供の違いを考えて見ました。人間は脳幹という古代から感情・生理を掌る
   部分に加え、大脳皮質・前頭前野という「人間らしい理性」を持つ部分が発達してきました。
   人間誰しも 感情があり、理性があるはずです。どちらが多くでるかで、大人(人格者)
   であるか、子供(感情のまま行動する未熟者)に分かれます。
   「あたりまえじゃないか〜〜」と仰られると思いますが、冷静に社会を俯瞰すると
   大人は5%以下しか 世界中にいないのでないでしょうか?
   全世界 ほとんどの人間が 子供でしょう。
   ここでいう子供とは、
   11)感情で物事の優先順位を決める。好きなものはやるが、嫌いなものはやらない
   22)行動原理が 欲情と 感情であるため、抑えが利かず、頭で分かっていても、行動が
      伴わない。社会的価値が分からない
      貪欲が理性を完全に抑え込む
   33)先見性がない。こう行動すれば、このような結果になるであろうという事前思考が
      働かない
    等々でしょうか。
   大人とは
   11)理性が働き、社会的重要性が認識できる。行動・発言は
      社会的重要性の優先順位から 行うことができる
   22)社会的重要なものに対しては、たとえ自分が嫌いなことでも率先して行動できる
   33)自分が好きなことを諦めてでも、社会的義務を果たせる
    等々です。
   地震が担当地区で発生し、危機管理が必要なとき、たまたまゴルフに興じていた市長が
   「とりあえずゴルフとその後のマージャンが終わってから市役所に行こう」と思考した
   場合は、それは子供の11)ですから、全く大人とは言えません。
   「選挙に立候補したのは、社会を良くするという動機」であったが、実際は公共工事の
    汚職による 金銭への欲求に負けて、不正を繰り返す県知事 なども 子供思考の
   22)でしょう。
   本当に大人が少ない社会になってしまいました。金融危機も 子供思考の22)が
   優先された結果、自分の給料の拡大が全てで、それによる社会への悪影響などは
   完全に無視され、理性がない子供思考です。
   使命感・責任感あふれる 産婦人科の医師などは、「大人の中の大人」でしょう。
   自分がゴルフに興じていても、携帯に電話で「出産準備お願いします」と来れば
   子供の感情価値であるゴルフ より 社会的価値である 出産を優先し
   ゴルフを諦め、病院に駆けつける 崇高な医師もたくさんいます。
   ときには、人間の究極の欲である 睡眠欲を捨ててでも 社会的価値を優先し
   倒れるような 医師もいます。そのような医師は 大人すぎるので、今度は社会全体で
   救済しなければなりません。でなければ、益々大人が減っていきます。
   商社マン でも常に大人でなければ ならないと思っています。
   人間は常に 感情と理性が対立していますが、何が社会的に重要かが見極められない
   ような 人間は 墓に入るまで子供であると思います。
   理性を育て、人の気持ちが分かるような人間になりたいと思っています。
  2009年5月7日
   

  (欲と少欲、情と理)
   20世紀の産業の発達は 人間の欲と情(感情)の膨大なエネルギーを巧みに利用して
   成し遂げられた。貧困からの脱出は人間の基本的欲求なので、人類は経済発展には
   誰も躊躇せずに、その解決に向かって突進してきました。
   その副産物として環境破壊、温暖化が生まれましたが、この解決は非常にやっかいです。
   なぜなら、この解決には「人間の欲を制限」して、「感情を抑え、理性を働かせる」ことが
   必要だからです。大変それは人間にとって難しいのです。
   人間は、権力欲、金銭欲、物質的幸福欲、覇権欲、支配欲など膨大な欲の塊です。
   たった一つ、欲を辛うじて制限できているのは(今のところ)、核兵器の使用だけです。
   最後のわずかな理性が働いているため、人類の破滅が食い止められています。
   言い換えれば、それも「生存欲」が「支配欲」「戦争に駆り立てる怒りの感情」を
   抑えているとも言えましょう。
   斯様に、現代社会は不安定な「人間の欲」と「人間の感情」の上に成り立っています。
   感情は我々の人生を支配しています。我々の行動原理も実は、感情的に決断を下したあとで、
   衝動的な決断や行動をしばしば正当化するために 後から論理的理由を考えているに
   過ぎないのです。最も理性的であるはずの裁判所の判決も、そのような思考過程でしょう。
   感情とか欲そのものは「思考」されていません。自動反応です。感情は代替案などありません
   つねに結論はひとつです。怒ったときは 「怒った」だけで、同時に「笑った」り「安らいだり」
   できません。感情は最悪の場合はパニックと激怒を伴います。最高の人格レヴェルであれば
   崇高な落ち着きと自信、つまりは理想的な心理状態となります。
   平均的な人間は その両極端のどこかの中間で生きておりますので、その後の論理的意識は
   前頭前野にて感情を決定している原始的な大脳脳幹に方向付けの修正を求めなければ
   なりません。
   良く、カッとなってピストルを撃つ前に「10秒間」待ちなさいと言われます。もし10秒間待てれば
   どんなに殺人事件が減ることでしょう。自動思考でしかも莫大なエネルギーで人間を突き動かす
   感情は一瞬のことです。それを自覚し、コントロールできれば、その人間は成功します。
   そして人類全てがそのような行動規範を実行すれば、平和が訪れますでしょう。
   理性的で、少欲。 それが 唯一の21世紀の行動原理でしょう。
   経済発展はもう止めましょう。さもないと温暖化という緩慢な自然破壊が人類を戦争に
   駆り立てることとなるでしょう。食料とエネルギーが不足する、すなわち「生存欲」が危機に
   なったら、人間は何をするか分かりません。生存欲は最低の人間の欲であり
   だれも制限することはできないのですから。
   水がない、食料がない状況に人間が置かれたら、何でもしますよ。たぶん・・・
   2007年10月19日
  

   (文明の発達と人間性の喪失)
   現代社会は発達・発展して人間の幸福に貢献してきた・・・はずです。
   でも現実には、人間の疎外、人間性の喪失に「貢献」しているという皮肉な現状とも言えましょう。
   コンピューターネットの発達は 通信の費用を劇的に削減し、地球の裏側の人々とも瞬時に
   コミュニケーションできるようになりました。これは自分の世界が広がったのでしょうか?
   手書きの手紙・郵便しかなかった昔(つい最近までですが)は、より頻繁に人と会っていたはずです。
   今は、パソコンの画面と向き合っている人々が多いです。チャット、メール、ゲームを忙しく行い
   パソコン画面、携帯画面に一日の大半の時間をつぎ込んでいます。これは「会話」でしょうか。
   人間の交流として世界が広がったのでしょうか。必ずしもそうとは言えない状況でしょう。
   商売でも、昔はこう言われました。
  「商売したかったら、まず人と会え。会ったら飲め。できればゴルフでもして接待しろ」
   と・・・。 これは、人間の交流には 会うこと、会って会話することが不可欠との意味でしょう。
   電話では、かろうじて人の息づかい、会話の間、がありますので、人間性の伝達がある程度
   できます。メールですと、交流しているかどうかが分かりません。こうして随筆を今書いていても、
   どの人々がどのように受け取っているか分かりません。結局は「直接会って話さなければ」
   何も始まりません。
   現代社会で 人間はその「最終的には会って話す」時間がますます減っています。
   パソコンに8時間、携帯メールに3時間を費やしたら、寝る時間、食事、風呂などの時間を
   引けば(通勤時間も) いったいどれくらいの時間が「人と会う」ことに費やせるでしょうか?
   殆ど 残っていません。
   ましてや、ゲームに明け暮れていれば、極端な話、1時間も「会って話す」ことなしに
   一日が終わっています。これが現代社会です。
   その生活を生まれてから20年、30年続けていたら どのような人格が形成されているでしょうか。
   たぶん
  1)一方的主張をするのはうまいが、相手の意見を受け入れ、対応する能力が育たない
  2)感情の起伏を抑えられない、キレ易い人格になる
  3)逆に、無感動になる。
  でしょう。
  この随筆も 一方的です。飽くまでパソコンとかメールは人間の交流の「きっかけ」であるべきで、
  このコミュニケーション手段が「最終手段」となったら、人間性は喪失してしまうでしょう。
  2007年10月2日

  
  (肚の人
 商社マン人生も、はや27年以上過ぎたわけであるが、その間、多くの人物に会い、多くの経験をし、
多くの失敗・成功も体験してきました。が、まだ小生は「できそこない」であることを痛感しています。
儲かった、損した、滑った転んだなどに 一喜一憂し、小さなことに動揺し、不安になり、あらゆる経済情勢に思いを巡らし、落ち着くところ、いったいどこにあるのかという、肚の据わっていない未熟者です。
やたらと前頭葉ばかり使い、脳ばかり疲弊させ、で接する方法にたどり着かない。従い、心の安定もない。
これは文明化した現代人に共通する欠点かも知れないとも思います。
物質文明的価値観では、人間は頭の回転が速く、機転が利き、動作がすばやく行動的であり
先見性があるのが 価値ある人間とされて来ました。小生もそれが現代を生きる術であると思ってきました。
だが「何か違う」。能率主義、立身出世・物質的繁栄、社会的成功は人間の本質的価値を
見落としているのでしょう。それが 下記にて3-4年ほど書いてきた要諦でもあります。
江戸・明治には 社会的に「本質的人間の価値」を見抜く正気さがあった。
元来日本人は 頭が良いだけでは「小賢しい」といい、技術だけ優れているのは「小器用」といい
あまり尊んではいない。
つまり 「頭の人」より 「肚の人」を重んじていました。 
「全ての瞬間、瞬間を 肚で 生活する」ことが 人間が人間として「まとも」になる
最高の方法と知っていたのでしょう。
過去の多くの大丈夫、釈迦・一休・白隠・中村天風・澤木興道などの教えに共通するのは
結局は「心の安定」をいかになし得るかの一点に尽きます。心の安定は すなわち
心の中心を下げることであります。「頭の人」は のぼせ上がり 重心が高すぎる。安定しない
仕事でも 趣味でも 全てを 「肚」に心を置けば 間違いないのではないでしょうか。
仕事も力みすぎては 重心が頭とか肩にあり 硬直し、柔軟性がなくなります。すなわち 拘る、囚われる。
ゴルフでも欲がある(拘る)と上半身に力が入り うまくいかない。腰で打つ・無心でスイングするといい結果が出ます。
ジャズの演奏も 肩に力をいれず 腹式呼吸で自然体で吹くといい音色を出せ、素敵なメロディが出てきます。
古来から綿々と伝わる日本の所謂「道」は全て それを教えています。
書道、茶道、弓道、剣道、柔道、全てが 気を丹田に置かないと駄目。
小生は今まで 坐禅、瞑想に「心の安定」を求めてきましたが、先人は それも「間違いでない」が
それは 「静中の工夫」であり、 日常生活全て、すなわち「動中の工夫」がなければならないと
教えています。白隠曰く「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること 百千万倍」。坐禅だけでなく
日常の動作全てを修行と考えよと喝破しました。
近代日本には(明治)、藤田霊斎、岡田虎二郎、肥田春充の3氏が 「動中の工夫」を
教えています。最近の例では「佐賀のがばいばあちゃん」でしょう。あのばあちゃんはまさしく
肚の人」です。禅をまるで修行したかのような、綺羅星のごとく、すばらしい言葉が並んでいます。
本来無一物、日日是好日と「全く同じ意味」のことを言っています。
小生も丹田修養を心して、生きる指針にしていきたいと思います。


  2007年7月30日

  (幸福論)
  幸せとは何か、生きがいとは何か  これは人間の最大のテーマで「生きる」価値への
  テーマです。是が 宗教、哲学、の主要問題といっても過言ではありません。
  「幸福論について語るのは、自分が幸福と思っていない人物が語るのである」と、
  精神医学者が述べていますが、ある意味当たっているかもしれません。しかし
  釈迦も 「生老病死」に「悩み」その解決を 心の探求に求めたわけですから、
  人間程度の差こそあれ、人生の一時期に「幸福とは何か」を思うことはあるはずでしょう。
  釈迦、キリストが到達した究極の人類の心境はアートマンとも言われ、
  マズローの「5段階欲求説」での 最後の段階の「自己実現」をも超越した 最終ステージ
  でしょうが、その「最終ステージ」は 意外と今、ここにあるかも知れません。
  幸福とは何か、は簡単です。
  「幸福と感じている心に満たされている状態」です。どんなに物質的、金銭的、社会的に
  恵まれていても、その人が「幸福だ」と思わなければ、幸福ではありません。
  従い、幸福とは勝れて主観的問題です。
  では心とは何でしょうか?、状態とはどのようなものでしょうか?
  心は一般的に人間の意識、認識、感情と考えれれています。即ち前頭前野、大脳皮質
  で認識されているものが「心」とされていますが、実はそうでなく、脳幹に心が存在している
  のでしょう。いや脳幹の心は所謂「心」でなく、人間の
  存在そのものの「実感」で、意識を超えたところで「人間脳が働いていない状態」でしょう。
  では我々が持ちえる「幸福感」は実感できるためには どうしたらいいでしょうか。
  繰り返しになりますが、幸福は言語脳、感情脳で「感じる」のでなく、自然脳(フェアリー
  ブレイン)で「感じる」状態と言えましょう。
  つまり幸福、安心立命は 言語では表現できない「代物」で、究極の自然脳作用状態でしか
  味わえないでしょう。禅でも初期仏教でも、ヨガでも、それを言語で伝えようとしていますが、
  結局は みな禅も初期仏教も 「不立文字」と言ったり、「教外別伝」と言ったり しています。
  皆さん各々が実感(悟り)しなければならない種のものと教えています。
  欲による金銭、名誉、支配などが達成されても、一時は幸福感を味わえますが
  なぜか「満たされない」思いにすぐ包まれてしまいます。
   「欲」が支配する大脳(前頭前野、辺縁系)による幸福感は 所詮結局「物足りようの思い」でしか
   ないでしょう(澤木興道曰く) 物(物質)足りる思いとは、金、出世、名声、などは勿論のこと
   一見自然脳の幸福とも思える、 煩悩をなくすことも 含まれます。
   脳幹は 脳生理学的に 「爬虫類脳」とも呼ばれています。大脳辺縁系はサルなども
   発達した感情脳で 人間脳として 大脳がありますが、「生命体」として宇宙の存在としての
   自己は その 「爬虫類脳」に帰ることでしょう。純粋生命体としての自己を味わうことこそ
  真の幸福、安心立命があると思います。
  仏教では「本当の自分」を見つけることが本当の幸福であると教えます。これは言い換えれば、
  本当の自分とは 上記「脳幹」だけの自分(意識を超えた自分)であるとも言えます。
  皆さんが「自分は不幸だ」「自分は不満だ」と思っている「自分」は 上記の大脳であり、
  それは単なる「思考回路」に過ぎず、自分では実はないのです。
  それを「気づいた」(SATIと言います)人間が 安心を得られると教えています。
  2006年6月12日、7月19日加筆、10月5日加筆、11月1日加筆

  
  (現代文明の問題点について,価値観の不合理性について)
  人は生きるために最低限度の生産行為、経済行為をしなければなりません。
  地球はつい最近まで資源再生産(エントロピーの循環)を
  可能とし、生態系を維持してこれました。
  ところが、現代の急激な経済発展は「生きるための最低限度」をはるかに超えており、
  事業欲、金銭欲、名誉欲に依存した資本主義の「歯止めが利かない」発展の先にある
  「破滅」まで予見できる状況であります。
  現代では、社会主義、共産主義の限界は露呈され、とりあえず資本主義が人間の
  「欲」をたくみに利用し、一見合理性を有していると思われておりますが、その価値観
  には 究極的には「むなしさ」「無意味さ」を内包していると思います。
  経済発展は 善とされていますが、無限の発展の先にあるものは「限界」であり
  破滅です。経済成長は 実は「悪」ではないでしょうか。人口が増えないのに消費を
  増大させても何の意味があるのでしょうか。米国、中国、ロシアなどの大国は新聞記事を
  みるまでもなく、資源覇権を「我をむき出しにして」追求しており、2006年12月にては
  サハリン2プロジェクトでも ロシアは「突然」自国資源の覇権を強引に取り戻し、エゴ丸出し
  です。中国も自国の発展のみが関心事で、東シナ海利権、イランの核開発黙認での
  石油利権確保、米国はイラクをみるまでもなく武力に訴えてまで、資源を略奪する姿勢を
  崩しておりません。無限の欲、資本主義の「成れの果て」はこのようなカオスでしょうが、
  欲をベースに人間の生活ルールを設定した現代資本主義はある意味、当然の帰結で
  しょう。
  地球温暖化に見るまでもなく、資源再生産が不可能なまでにエントロピーを増大させ
  京都議定書の1990年に比べ8%削減するためには2004年では14%も削減しなければ
  ならない数字であり、まして 巨大消費国米国、及び巨大生産国中国の両国が加盟して
  おらず、両国の「身勝手さ」も「破壊を助ける」結果となるでしょう。
  まさに「欲」が「破滅」をもたらすことになり、石油枯渇による資源戦争が回避されることを
  願って止みません。
  キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの「二元論」的世界観ではこの問題に気づいた
  時にはすでに遅いでしょう。宇宙、地球資源 と 人間を二元対立させて
  「征服」しても それは自己破滅であることは明白です。
  「一元論」的仏教がその役割を果たさなければならない時期でしょう
  テーラワーダ仏教は 「宗教」とは言えません。絶対的神の「命令」など この世に
  存在しないと明言して、「自己の気付き」を「真理」と掲げて、ヴィパッサナーを
  人間の心の最終解決としています。その概念として「一元論」があります。
  一元論とは 「宇宙と自己を一体化し、価値観を宇宙と同化させる」ことです。
  紀元前でも 鎌倉時代でも 昔であれば、どんなに消費文明に溺れていても
  まず、「地球の限界」はなかったでしょうが、現代は「地球の限界」を見通せるほど
  発展してしまいました。
  「欲」の無限の追求は 最終的には「むなしさ」が待っています。
  100億財産があっても、10人の妾をもっても、100のゴルフ会員権を
  得ても、最高級の外車を10台持っていても、10億の豪邸に住んでいても、結局
  人間の最後の価値観は 「いかに生きたか」「いかに死すべきか」でしょう。
  20世紀的価値観(物質至上主義、経済発展至上主義)の修正が急務です。
  人間の叡智に期待します。
  2004年11月15日、2005年9月6日加筆、2006年12月26日加筆
  
   (人生の最大価値とは、人生とは)
  先日、八王子片倉町にある「松門寺」にて座禅会に行ってきました。
   座禅をするのもはじめてですし、お寺に行くのも修学旅行や葬式を除いては
   めったに行かないので、貴重な体験でした。
   常日頃、下記しているように、禅には興味あったので、座禅をすること
   にて、「何か糸口が分かれば」との思いもありました。
   1日2時間座禅をして、そのあと老師から正法眼蔵の講義もあり
   約3時間半を過ごしました。
   座っている間は「なにも考えないこと」を目指すのですが、足は痛くなるし
   「痛い」という思いも「考える」ことですし、「とりあえず我慢しよう」と
   「思う」ことも「考える」ことで、またボーとしていると「あ、今考えてないな」
   と「考えて」しまうし、仕事のことなどもふと頭に浮かぶことあり
   そのときは「いかん、無心無心」と思い直すと「また考える」といった
   具合です。
   しかし、総じて心は「穏やか」にはなるような気がします。
   毎月の座禅会は今後も続けるつもりです。
   「松門寺」の座禅会の紹介はホームページ www.shomonji.or.jpにて
   見れます。
  最近又、山田無文の本を読み返していますが(山田無文は鈴木大拙ほど
  難解ではありません)、彼の「座禅和讃講話」のなかで
  いっていることは皆様も同意してくださるだろうと思いますので、ここに
  引用します。
  「私どもの社会生活は、それぞれ家庭をもち、子供までこしらえ、事業を営んで
  楽しく面白く、ときには悲しい出来事もおりまぜて、とにかく毎日をにぎやかに
  生活しておりますが、なにか一抹の不安はないでしょうか。これでよいのかな
  というようなものたりなさ、さびしさがないでしょうか。忘れ難い魂の故郷が
  どこかにあって、一日も早く帰らねばならぬ両親が、胸を広げてまっておら
  れるような焦燥感がないでしょうか。もしありましたらそれが、私は宗教心
  というものだと思います。」
  この解釈は胸にズー-ンと来ませんか。
  やはり、人生の最大価値は「安心立命」で24時間、365日を過ごせるかどうか
  だと思います。「一抹の不安」を持たずに一生を終えればどんなにか
  幸せでしょう。
  2004年5月14日、2004年6月28日加筆、2004年11月9日加筆

  (すばらしい人間とは)
  私は、毎朝近くの川沿いを犬と散歩(犬の散歩ではありません 微妙ですが)
  しておりますが、時々川沿いに捨てられたゴミを黙々と拾っている方に
  お目にかかります。誰に褒められるでもなく、社会的義務としてでもなく
  ただただ黙々とゴミを拾っておられます。
  私は、そのたびに、心の中でそんな方を尊敬しております。
  1)でも述べましたが、本当の立派な方とはそんな方でしょう。
  いわゆる、世間での偉い方にも何人もお会いしてきましたが、
  社長、部長、資産家、仕事のできる方、などには、「さすが」との感情は
  抱きますが、「尊敬」「感動」はいたしません。
  私も、ゴミを拾ってみようとはしますが、時々わずかな1−2個を犬の
  処理袋と一緒に辛うじて、月に1−2回拾うことが精一杯です。
  とても、できません。
  私は日々禅関連の本を読んでいるのですが、上記そのもの である
  文章見つけましたので、引用します。
  (出典 正法眼蔵随聞記講話  鎌田茂雄著 講談社学術文庫)
  (引用)
  禅の修業の一つに「陰徳」というのがある。陰徳とは隠れた功徳を積むこと
  である。人に知られず、ひっそりと徳を積むことである。われわれ凡人であると、
  何か善いことをすると人に知って欲しいと思う。さらには、人に知って貰うために
  人にわかるように善行為を行うものである。陰徳というのはそうではない。
  誰にも知られず、ただそのやった善行の功徳を転じて一切のものに向けて
  回向するのである。誰に認められるのでもない、誰が誉めてくれるわけでもない。
  功徳をするのも自分の人格を高めるためにするのでない。
  (引用終わり)
  多少、小生も寄付などさせていただいておりますが、心のどこかに
  「自分の人格を高めよう」「人に貢献することはいいことだ」などの「意識」が
  ある自分を感じており、上記の「自分の人格を高めるためにするのでない」という
  箇所には言葉がありません。
  
  2003年6月19日、2004年12月16日加筆

  (三井物産を退社した経緯、及び2003年5月30日、6月2日の心境))
  現在46歳で、独立してから早いもので、8年経ちました。独立当初は
  みなから「三井物産みたいな大会社を安い退職金(本当にわずか)
  で、やめてどうするの」と あきれた声がほとんどでした。
  当時は本当に「何も考えず」に、辞めました。
  「何とかなるだろう」「マグネシウムの将来は明るい」などと
  気軽に考えて、販売目処はなんと 月間30MTのみでした。
  もちろん、その当時は金属シリコンなどほかの商品も、なく
  本当に、マグネシウム30MTで生きていくつもりでした。
  いざとなったら、警備員にでもなって、英語も多少得意だから
  塾の教師ならなんとかなるさ、との気持ちでした。
  時がすぎ、現在46歳の心境では、当時の気持ちは本当に
  「無謀」であったと思っております。でも、8年の間に需要家の皆様に
  支えられ、いまでは、商品案内にありますとおり、多くの商品を
  取り扱うようになり、一応(リピート 一応)安定しております。
  商売では、幸運に恵まれ、非常に幸せです。ありがとうございます。
  他方、人生の折り返しを過ぎ、出世、富、名誉など世間の価値観に
  対しては、正直「最低限の生活資金」「老後資金」は心配しておりますが、
  会社を大きくして名誉を得よう、などとは考えておりません。
  いかに、自分の内面である 心 が充実した時を過ごせるかを
  毎日考えております。
  私が、尊敬していた、美濃さん、舘井さんが 若くしてこの世をさり、
  「ああ、人間はいつか死ぬんだ」との思いもあり、人生の有限性を
  ひしひしと感じております。
  私はサラリーマン時代はほとんど本を読まなかった(読む暇がなかった)
  のですが、独立してからは、多読の部類に属します。
  やはり、人間の本当の幸せは物質的繁栄ではなく、心の充実、安寧
  でしょう。商売は時にそれを忘れがちですが、私としては、絶対に
  「誠実に」「正直に」生きていくことが、結局は人間の本当の価値と
  現在は確信しております。
  「一休道歌」は、そのなかでも人間の本質を見抜いたものとして
  感銘を受けております。
  「有漏路より、無漏路へ帰る一休み、雨降らば降れ風吹かば吹け」
  この世は、一休みです。気楽に過ごしましょう
  「仏とて外に求むる心こそ、迷いの中の迷いなりけり」
  「行く末に宿をそことも定めねば、踏み迷うべき道もなきかな」
  金銭欲、名誉欲、はなにほどのことでしょうか
  5月30日にて心の充実がこれからの人生の目標であると書きました。
  しかし、今の私は、不安、心配、が心のかなりの部分を占め、
  そのなかで、何とか皆様にお世話になって
  毎日を暮らしております。
  なかなか、一休さんのいう
 「物事に執着せざる心こそ、無相無心の無住なりけり」
  の心境にはなれません。
  生活を安定向上させたい、ゴルフももっとうまくなりたい。
  子供の将来も不安だ。今後の人生はどうなるだろう。などなど
  余計な心配をしてしまいます。
  聖書にも
  「明日のことを思い煩うな、明日が明日自ら思い煩らわん」
  とありますので、
  「ケセラセラ」ですが、そこまでの悟りの境地には行けません。
  ただ、心がけているのは、せめて「感謝」の気持ちを持とうと
  いうことです。生活できるのも感謝、ゴルフできるのも感謝。
  仕事できるのも感謝。子供に恵まれたのも感謝。
  よく、長寿のおばあさんが 「ああ、ありがたいありがたいことじゃ」
  などといっていますが、まさにそれは、そのことと思います。
  心の観照の修行中です。
  2003年5月30日、2003年6月2日加筆


第五部:仏教
   (悟りとは?生物学的考察)
   33)で医療情報をインターネットで取得する世の中になった話をしましたが、
   小生もその情報を猛勉強した結果、長年の座禅を通じて「仏教の悟り」を考えていたことと
   その医療情報が突然 繋がりました。 下記は 小生の立てた仮説です。

   仮説「仏教における悟りとは 生物学的に言えば、 脳神経支配から完全に逃れられた
   状況で  100%腸神経支配(生命の根源)に置かれることを言う」 です。

   仏教における悟りは  (本来は言葉では言えないのですが・・)
   表現としては
   *宇宙と一体になること
   *本来の自己に戻ること
   *空になること   有でもない無でもない ただの空である
   *無我の境地
   などと言います。

   その方法(修行)としては
   座禅、瞑想、念仏 などの修行による自己の解放を続けること・・・

   で・・  小生も一生懸命 座禅を続けてまいりました。しかしいまだに悟れていません。

   他方、33)で人間の体調不良のほぼ全てが  根源的にはリーキーガット症候群
   つまり  腸から栄養素・ばい菌が 血液に漏れて 免疫異常となり不具合を種々生じる
   状況となる ・・。 と インターネットで学習しました。
   この仏教の悟り+腸内環境 が どこでどう繋がるかと言うと、そもそも
   生物の起源・進化過程は まず単細胞、それから 複数の細胞に分かれ、成長したり
   栄養素を摂る過程で、まず 「腸」が形成されたそうです。
   目もない、耳もない、心臓もない 血もない、しかし「腸」はある・・
   のが原始生命。ですので、 肺も心臓も 血液も そして脳も  原始生命から
   高度な生命体への進化過程で作られた ある種の付属物に過ぎないのです。

   そして 現代医学により、1000兆個ある腸内細菌 その消化・免疫機構は
   脳神経の支配から完全に はずれて 腸神経として独立の 脳を持つと
   判明しました。脳死の人間、心肺停止して、いわゆる「死」を
   迎えた人間の腸でさえ、独自の神経が生きている限り
   消化吸収をしつづけるそうです。  ここからが 小生の仮説(仏教と腸)の始まりです。

   丹田とは 腸であり、「丹田に気を込める」とは 腸神経を活発化することであり、
    本来の自己とは 1000兆個ある腸内細菌による生命活動 であり
   腸内環境そのものである。
   悟りとは 「脳神経支配から完全に逃れ、原始生命である自己を見いだせた状態」
   つまり脳神経支配から腸神経支配 に戻ること。 でないだろうか・・  という仮説です。
   さらに仏教用語・座禅法を 生物学的に言い換えれば、
   「煩悩」とは 脳神経の産物で、煩悩が昂じたうつ病とはセロトニンの異常、
   セロトニンは95%腸で
   作られるのですが、 脳神経が 腸神経に悪作用して  その正常な働きを阻害する。
   およそすべての病気とは 免疫機構の麻痺、なぜなら腸は 人間の免疫の70%を担っており、
   本来の自己を完全に見失った状態ではないか?
   「無になる」とは 脳神経の停止、すなわち  腸内環境の正常化 腸支配生命の再現が
   できた状態。つまりは
   原始生命は  悩みもせず、喜びもせず、ひたすら栄養を腸で取り込み
   淡々と生きているのであるから、 その状態に戻れ!!ということでしょう
   座禅の 「数息観」「腹式呼吸」は  腹式呼吸により 腸のマッサージして腸の環境を
    整え、吐く息により副交感神経を活発化させ、腸の働きを正常化することにより
   腸神経支配を 優位にする。ということと思います。

   現代社会は 煩悩にまみれ 脳神経支配だけが 「人間らしい生活」と勘違いしている
   ようです。所詮 数億年、数十億年の 生命の進化過程から生まれた人間も
   その生命起源からは 逃れられないのです。
   腸神経支配 に戻りましょう。  そして 健康になりましょう

   それが 「悟り」と思います。

   2016年1月26日

   (諸行無常・生老病死)
   2014年12月5日、 飼い犬のモカが突然下血し、緊急搬送した先の動物病院で
   心肺停止となり、 死去しました。あまりの急逝で、家族は 大きなショックで
   その死を受け入れるのに かなり時間がかかりました。前日まで 元気に散歩したり
   ワンワン吠えていたのですから・・・
   12月5日 遺体を病院から引き取り、線香を焚いて
   モカの亡骸の前で、2時間ほど 座禅をしたとき、実感として 彼から生老病死・諸行無常
   を学ばせていただきました。
   幸いなことに 僕の両親はまだ健在で、 息子も娘も 成長し、妹夫婦も
   深刻な病気にも見まわれず、今までの人生では 老の実感はあっても
   死は 思考の外にありました。
   犬は 10数年で その一生を終えますが、それ故に家族に  最初から最後まで
   そのままの生、老、病、死を見せてくれます
   死に際に 病院で吠えたそうですが、下血のときまでは つらそうな感じはあまりなく
  (今思えば、必要以上に甘えていましたが) 淡々と生きていました。
   犬は 何も言いませんが、一生懸命生きたとは思います。
   翻って、僕は 日々 滑った転んだと ワイワイ騒ぎ、「淡々」からはほど遠い
   もがき煩悩にまみれた 生活を送っていますが、モカの静かな死顔は、
   僕に「少しは 穏やかに生きなさいよ」教えているようでした。

   2014年12月12日
   (マインドフルネス瞑想・禅  思考回路の変革)
   最近瞑想がブームです。僕も2000年ごろから座禅を始めましたが、最近になって
   ようやく 座禅の面白さ・・というか意味がぼんやり理解してきたように思います。
   人間社会は変化が激しく、特に経営をしていますと 将来展望や経済予測、客先との交渉経緯
   クレーム処理、新規開拓、銀行へのお願い 等々 色々思考・判断の連続です。
   それはつまり、思考が過去に行ったり、未来に行ったり、また過去に戻ったり
   彷徨っていることを意味します。
   対して肉体は 今ここにしか 存在しようがありませんので、 肉体と精神が絶えず
   分離しつづけているのが 現代人の特性と言えましょう。特に商社マンなどの営業や
   経営者は そのような人種です。
   そのような人種は 肉体は使わず、頭だけ酷使しているため、健全な精神を維持するために
   「瞑想」が必要と叫ばれています。
   マインドフルネス瞑想やヴィパッサナー瞑想 禅は  ひたすら今の自分の肉体・思考・
   感情・感覚を観察する 瞑想です。
   つまり  過去や未来を思考する 現代人を否定し、 現在のみに生きるということで
   心の安寧が達成されるという 教え・実践ですが、それの意義が 12年たって
  ようやく理解してきたように思えました。
   一言でいえば、 「動物に帰れ」です。
   近代人が発達しすぎた前頭葉を捨て、 生存本能の中枢である脳幹の作用だけに
   集中する。  息をする、運動する、寝る、食事をする、排せつする、ただそれだけ
   に集中することにより、 人間を捨て、「本来の自己」自分をとり戻すという
   ことでないか と思うようになりました。
   愛犬を観察すると  1年後の自分を心配するわけもなく、朝の散歩を10年以上変わらず
   無邪気に喜びながら 行い、おなかがすいたら  ごはんが欲しいとワンワン啼いて
   甘えたければ 飛び乗ってきて甘えています。そこには何の邪念もなく
   ひたすら今の瞬間瞬間を生きているだけです。
   仏教にては 「赤子の心に帰れ」とも言いますが、それも 今の瞬間だけに生きるという
   意味でしょう 過去もなく未来もないのです。
   瞑想が少し楽しくなってきました。
   2014年11月10日
         
   (ニヒリズムと禅と現代社会)
   高度に情報が発達した現代社会。強烈な競争社会、物質的幸福の追求の無意味さ
   あるいは閉塞感の蔓延。 極端な格差の拡大 等々 人々の心は荒みやすい環境です。
   人は生きていく間に 時々は誰でも「疲れ果て」たり「こんなに頑張っても所詮変わらないや」
   と嘆いたり「ビルゲイツも乞食も 同じ人間。
   墓場に金もっていけるわけじゃなし、そこそこでいいじゃないか」
   等々のある種の諦観(虚無主義=ニヒリズムとほぼ同義)を持つことがあるでしょう
   ニーチェによれば ニヒリズムとは人間の精神状態のこと(思想・信条・主義ということ
   ではないという意味=単なる状態という定義は意義深い)で、このニヒリズムにおいては
   私たちが取りうる態度は 大きく分けて、2つあるとしています。
   @全てが無価値・偽り・仮の姿という現実世界を前向きに捉える生き方。つまり
     自ら積極的に「仮の姿」を生み出し、一瞬一瞬を一生懸命に生きるという態度・
     精神状態(能動的ニヒリズム)
   A何も変わらない事態・何も頼れない信じられない事態に絶望し、疲れきったため
     その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(受動的ニヒリズム)
   皆さんが(僕も含めて) しばしば感じる感情としては、
   「がむしゃらに働いても その後には所詮皆年老いて死んでいくのさ。なんで一生懸命
   になる必要あるの?ばからしい」
   「たとえ成功して、大金持ちになっても 使いきれるわけでないし、金が幸福をもたらすわけでもない
   アップルのスティーブジョブズは 凄いけど、一生懸命働いた結果、癌で早死にしてしまった
   無駄じゃない?」
   「出世したって 責任ばかり増大して、精神的に負担が増えるだけで何もいいことない
   そうなら 楽な仕事見つけて ケセラセラ 安倍首相頑張ってね〜 僕ら怠け者だけど
   生活保護厚くして 助けてね〜〜」
   などと考えて、 Aの人たちの結論は しばしば、
   人生は無意味だからして 、
   「働かなくてのんびりしよう」「結婚したって苦労ばかりだから一生独身でいよう」
   「いい仕事につけないのは世間が悪いのであるから、生活保護で静かに生きよう」
   「仕事はつらいから パチンコして 何も考えないで暮らそう」となります。
   でも そのような人たちも 「時々は」わが身を振り返って
   それで いいのか?? との自問自答を時々するのですが、あえてそのような
   人たちは その自問自答行為も 精神的に苦労したくないと
   いう思いが先行して 意図的に思考停止して、流されて生きています
   
   ではそのような生き方を 生涯貫いて その人は 幸せを感じることができるのでしょうか?
   それは 当の本人でしか判りません。しかもその本人が死ぬ間際考えることですので
   それも 我々は分かりませんし 価値を論評もできません。
   そのことは 以前「人間探求教学=幸福論」で 述べましたが、そのような人たちの
   幸福観は 判りません。
   話をニヒリズムに戻します。
   僕も 基本的世界観は 「所詮一人で生まれて、一人で死んでいく」と思っていますので
   ニヒリズムと言えばそうですが、 ニーチェの定義でいえば@の生き方です。
   過去にも禅の言葉を 何度か援用していますが、仏教の出発点も お釈迦さまが
   生老病死の疑問「人はなぜ生まれ、老いて死ぬのであろうか」から始まって、
   結局は 「自分」という存在の( ニーチェとは若干違う意味ではありますが)無価値
   を説いています。で その無を 出発点として 無明への戒めをしているわけで
   ニーチェの 言葉でいえば
   「全てが無価値」であることを認識して 「一瞬一瞬を一生懸命に生きる」
   という表現ができます。 禅 と ニヒリズム(能動的)は かなりの共通点があります。
   「今、ここに生きる」「日日是好日」や 「人生は苦(ドゥッカ)である」も 無価値、仮の姿
   諦観の 認識を「踏まえて」前に進む 力強い 能動的ニヒリズムといえるでしょう
   現代社会に生きる一人ですが、 物欲・出世欲・金銭欲にまみれて 無・無価値が理解できずに
   人生を終われる人は ある意味 幸せ(実は不幸でしょうが・・)ですが、
   殆どの人間は 上記の諦観(空しさ)までは 思い至ることが多いでしょう
   問題は その後の生き様です。
   私事ですが(正確には家族)、実家の父は今83歳になりますが、
   78歳のときに 「土地建物」関連の 裁定・仲裁をする国家資格に合格し
   地元紙のニュースになりました。 
   78歳で 国家資格に合格する勉強姿勢に皆が驚嘆したこともありますが、
   むしろ 78歳で合格しても 仕事として役に立つわけでもなく、実際業務を
   するわけでもないわけで「合格して、だからどうなんだ?」という 上記ニヒリスト
   にしてみれば 理解不能の行為かも知れません。でも 今の僕なら 多少は
   理解できるような気がします。 父としては その瞬間としては 勉強することが
   一生懸命生きる答えだったのかも知れません。
   われわれはちっぽけな人間です。些細な人生です。誰も何も 気にしないでしょう
   だからといって この世に人間として生れ落ちることは
   お釈迦さまの言葉で言えば「人間に生まれる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)
   であり、数百万種類の生物の中で人間に生まれる確率を考えると 全地球の土の中で
   爪の上の土ほどの少ない確率であり、大変「ありがたい」(有ることが難しい)わけで、
   ラッキーなことなのです。
   一生懸命生きなければ もったいないではありませんか
   能動的ニヒリズム で 刹那を楽しみましょう

   2013年6月24日

  (なぜ心が安定しないのか)
  人間は9)でも述べましたが、欲から逃れることはできません。悲しいサガです。
  また、不安からも逃れられません。小生の必携書「仏教は心の科学」(スマナサーラ著)でも
  繰り返し述べられていますが、まず 欲と不安を「そのまま」認めて、人生は苦であることを
  受け入れることから作業が始まるのでしょう。心を科学し、トレーニングする以外に方法は
  ありませんでしょう。初期仏教と禅はその点は完全に一致しています。
  なぜ不安になるかは、心が「今ここ」に安住できず、過去と未来を行ったり来たりして
  体と分離していることが 最大の原因と喝破します。
  多くの言葉がそれを警告していますが、大多数の人間は(小生も含め)実感できずにいます。
  心身一如、今ここの自分、本当の自己を得よ と言うし、 「心ここにあらず」として
  心と体の分離を戒めています。
  人間は何か好きなものに熱中するときとか、「今ここ」の体に集中していないと自分が危険に
  なるときとかは「悩みようがない」状態になります。小生の場合、例えばスキューバダイビング
  をしているときがその典型です。水中では「今ここの」呼吸を疎かにできないし、一生懸命呼吸に
  集中し、仕事のことなどを考える余裕など全くありません。さらに海中の魚や亀を見ているときは
  「今ここ」の楽しさを実感して30−40分邪念など全く入り込みません。で、その後陸に上がっても
  最高の爽快感が全身を満たしています。
  まさにそのときは 禅の修行僧が座禅で 「自らを遊ぶ」心境と同じでしょう。
  ですから、もし日常生活24時間が 全て「今ここ」に心を置くことができたら、悩みなど
  全く入り込まないでしょう。それが座禅であり、ヴィパサナーであり、心が育ったという
  ことでしょう。
  2007年4月13日


  (物欲と心、中庸、知足)
  スマナサーラさんの書物にも頻繁に出てきますし、小生の人生観、問題意識とも符号するのですが、

  経済行為と人間の欲は非常に厄介なものでないだろうかと思います。
  人間の欲は制御が利かず無限まで突っ走るが、突っ走れば突っ走るほど 「これは何か違うのではないか」と
  自らの心が「渇いてくる」のが分かる。躊躇いながら、分かりながらしかし「突っ走る」しか方法を
  見出せない。もがけばもがくほど 泥沼に入っていくような感覚を感じるかも知れない
  物質、富、名誉を追い求める行為と心の充足は 実は反比例の関係であろう。
  物質を追い求めるのは心が充足されないと分かっても、では追い求めなさ過ぎるのも極端であり、そこには
  再度心が「渇いてくる」。何故だろうか、それも自然の摂理に反して、「節制しすぎた」「人間らしくない」
  自分があるからでないだろうか。
  絶えず、そのことに「気づき(sati)」を行い、中庸・知足に努めなさいと初期仏教は教えています。
  それが出来ることがきっと中庸となり、知足を実行している意味であろう。そのときに初めて
  人間らしい穏やかな心が戻り、心を自分がコントロールしているのであろう。不動心、平常心とは
  そのような意味かもしれません。
  2007年4月4日

  (生きるとは)
  最近小生が影響を受けている人物はアルボムッレ・スマナサーラさんです。
  テーラワーダの伝道のため日本で活躍されています。著書も数多く出されており、
  日本の著名人(養老孟司、立松和平、玄侑宗久諸氏など)との対談本も多く出版されています。
  過去 4)でも「人生」に関して感じたことを書きましたが、禅のアプローチはそれはそれですばらしい
  とは思いますが、簡単なことを複雑にしてしまっているような気が今はしています。
  彼は、「生きるとは何ですか」と語りかけています。
  我々の価値観、考え方では、生きるとは「生活すること」具体的には、学習したり、結婚したり、
  就職して金を稼いだり、子供を育てたり、・・すること。と思いますね。でも、それは
  実は、「生きること」ではなく、「生きているからやっている事」「生きるための道具、手段」と
  言い切っています。「生きることの本当の意味」を分かっていない。だから「悩む」のである。
  と教示しています。 そうです。私も分かっていません。人生の価値(世俗価値)にこだわり、
  悩んできました。釈迦が言う「人生は苦(ドッツカ)である」も実はこの問題を言っているのです。
  テーラワーダはある種科学的で、簡単なことを簡単に説明してしまっています。なるほど とは思えます。
  でもその境地には、結局のところ 禅と同じように「達するには大変」ですが・・・
  彼は「人生はゲーム」である。粛々と生を受け、粛々と死んでゆく ただそれだけであるが
  その過程が人生で、ゲームを楽しまなければ「もったいない」と言い切ります。
  人生を楽しみ切るためには 「心の成長」を目指さなければならない、とも仰います。これも
  小生の考えと全く一致していますが、彼は極めて科学的に説明してくれます。
  全ての事象に「気づけ」ばいい。痛み、悩み、喜び、生きがい、感情の変化、肉体の変化
  動作、思考 全ての五蘊は 所詮「自分」でない「心」でない、客観的に「観察」できるものである。
  それをひたすら観察しつづけること、それが 客観的心の成長である。
  観察して観察してそしてそれを徹底的に楽しむこと、全てを受け入れること。
  そうすれば、粛々と平穏に生きられる と説明しています。全くそのとおり!
  生きることを楽しもうと思います。
  2007年2月13日、2007年2月26日加筆

  
  (精神と肉体について 心身一如)
  現代社会に生きる一市民として、また日々ストレスと戦わなければならない零細企業の社長
  として、「大安心のもとに生きる」ためには どうしたらいいかを最近自らに問いかけております。
  座禅会に出席しはじめてから 1年半、家でも毎朝しておりますが、当初「精神修行」と思っていた
  座禅も実は 肉体の鍛錬でないか との思いに現在は至っております。
  釈迦も菩提樹の下で 座禅の結跏趺坐をして悟りを開いたとされていますが、それ以前には
  「修行」として さまざまな肉体鍛錬(いじめ)をしておりました。道元の進める 只管打坐も
  「ひたすら坐禅する」わけで、「不思量を思量せよ、非思量」とあり、肉体に問いかける行為と
  思っております。
  ヨーガも結局は肉体に問いかけて、精神をコントロール(言葉が不正確ですが)するわけで、
  呼吸、姿勢、鍛錬などによって 「心の安定」を図れます。
  わが身を省みると、三井物産時代も含め 仕事、仕事(精神活動)に明け暮れ、
  心が常に現在になく、 過去(反省、後悔、成功体験)と将来(予測、不安、判断、戦略構築)を
  行ったり来たりしておりました。 まさに心身別離でした。其の上、肉体に問いかけることも
  皆無に近く、結果 出っ張った御腹、弱い足腰、ふにゃふにゃの体幹筋肉にて
  頭中心の生活をして参りました。
  今、48歳ですが、肉体にもっともっと問いかける必要性を感じております。
  たかが坐禅の2−3柱(1柱はお線香一本の時間 30分程度)をするにも 足が痺れる
  背筋が伸びない、集中力が欠ける 状態で、我ながらなさけなく思います。
  また、最近テナーサックスのレッスンを受けていますが、それもたかが1時間のレッスンにて
  サックスを吹いていますが、腹筋の弱さ、呼吸法の未熟さから ばてばての状態です。
  そこで、いまは 仕事も大事ですが、まずは心身一如を目指し、体幹筋肉、呼吸筋を
  徹底的に鍛えようと思い、
  ヨーガの呼吸(強い腹筋呼吸ー火の呼吸)をいま続けていますが、だいぶそれがいいように思います
  また一説には 「心の安定」にはセロトニンの分泌が欠かせなく、そのためには 坐禅、ヨーガ
  水泳、それと強い腹筋呼吸(腹式(横隔膜) でなく腹筋)がよいとされています。とりあえず、今
  それを全部しております。
  今年末までには 変身したスリムな(しかしがっちりとした)上島をお見せする予定です
  2005年9月5日



   第六部:時事問題に思う
   (インターネットは 医療革新に繋がる)
   今年2016年は申年、僕は5回目の申年を迎え、還暦となります。
   零細企業を 何とか20年倒産せずに維持し、頑張り続けた結果、体のあちこちに
   ガタが来ている様で、人間ドックでの数値での異常個所が 多くなりました。
   中性脂肪や尿酸値は 元々35年まえから高いので、気にも留めなかったですが、
   流石に気になる数値に対しては、 改善しなければ・・・ と心を入れ替えております。

   同じような境遇の人たちは どうしているだろうと 今まで見向きもしなかった
   健康情報満載の インターネットを ここ10日ほど調べましたが、
   驚くべき情報量と ある意味正確さに 驚嘆しました。

   今までは  インターネットの健康情報なんて、宣伝目的か 自己満足か
   はたまた祈祷師よろしく、怪しげな効果を 自慢げに披露しているか・・・
   どうせ、ろくでもない 情報だろうと バカにしていましたが、
   大きな間違いでした。

   むしろ現代医学の非常識や  医学界の旧態依然とした体制が浮き彫りに
   なったように思います。
   インターネットの健康情報、治療情報は  いわば「豊富な治験者の実体験」の
   洪水なのです。
   人体実験のN数が いわば無限に存在している と言い換えてもいいでしょう。
   勿論 宣伝目的かな〜〜というものもありますし、怪しげな祈祷師療法なども
   散見されますが、90%以上は  自分の体の人体実験に基づく 治験者報告です。

   つい10年―20年まえは 医者のコメントが絶対でした。
   他に比較する情報もなく(かろうじてセカンドオピニオンとして もう一人の医者の
   見解を聞くことを許容する・・・ 程度) 盲目的にその診断を信じて
   多くの患者が ますます病状を悪くして、あるいは人間モルモット化して
   いたのが実情でしょう。

   で・・・ 何を言いたいかというと
   僕の異常数値は 「免疫の異常反応」ですが、 過去であれば
   例えば  アトピー ですね〜〜〜  症状を抑えましょう〜〜〜ステロイドですね〜〜
   糖尿病なら  インシュリン注射ですね〜〜〜 血行わるくなりましたね〜〜
   心臓バイパス手術しましょう。 腎臓透析しましょう〜〜〜
   壊死かな〜〜 じゃ足切りましょう。
   という 「対症療法」だけですね。

   今 インターネットで 盛んな議論は
   「なぜ 病気になったのか」「根治するにはどうしたらいいか」
   という方法論が満載です。
   多くの結論は、やはり・・・  
   医食同源であり、  病は100%生活習慣である・・   でした。
   改めて 日頃の不摂生、ストレス、を しみじみ反省しているところです。

   皆さん  お暇なら
   リーキーガット症候群、 副腎疲労、カンジタ症・・・ この三つを
   勉強してみてください。
   全ては  生活習慣です。
   ご自愛ください
  2016年1月21日 

  
   (「事あれ主義」の勧め、事なかれ主義・責任の不在)
   原発事故の危機管理能力の欠如を 昨年3月16日、つまり大震災の
   5日後に書いたのであるが、 今改めて読み返し、わずか5日後の指摘が
   1年経過しようとしている今も、2012年2月20日でも未だに続いている現状に
   呆れるばかりであるが、 この驚くべき責任の不在の 日本人全体に内在する
   「心の闇、心の病み」を思考してみたいと思う。
   この大事故、原発の暴発は以後数十年、いや100年以上 国民を苦しめることと
   なるわけであるが、そのような事態に直面し、茫然自失としているだけでは
   何の解決にもならないわけであるが・・・

   では驚くべき責任の不在は どうして起こるか
   責任は 決断・実行する人間の行為に必然的についてくるはずであるが・・・
   日本人の思考特性からアプローチしてみよう
   1)まず、先例を探す特性、前例主義が大好きである
     前例主義は実は 無責任主義に類似している
     「誰か先人がやって成功したことを取り入れる」
     「西欧で主流となった技術を取り入れる」
     誰かが成功したことを 取り入れるだけであるから、導入者は
     導入しただけであり、導入は意志というよりは
     慣習(すなわち決断の不在ー責任の不在)
     もし失敗してもそれは最初の先人・西欧が悪い
     自分は客観的存在と 唱える
     つまりは 決断していないのであるから 責任はない
   2)結果非想定主義、結果全肯定主義
     失敗することを想定しない、想定したくない
     したがって 失敗しないのであるから責任の所在を明確にする必要ない
     原発開発者や原子力安全委員会の言う「想定外」に象徴されるように
     成功することのみ想定したい、津波が20mあるような失敗の可能性や
     全電源喪失という失敗の可能性は 想定したくない
     想定してない(したくない)が 実際に起こってしまったので想定外
     だから 自分は責任ない 
     世間で言う「不可抗力」と言う論理
   3)そもそも責任がある意識がない
     権力の行使、権力の所持には 日本人も人一倍執着あるが、権力には
     非常なる責任が伴うという意識そのものが ない
     会社の社長は お金をもらい、社会的尊敬を受ける権利はあるが、
     いざ損失を株主・会社自体に与えてもそれは 経営責任でなく、社会情勢の
     せいである。従い無念の退任をする(これは責任を取ることではないと思うが)
     事以外は 何の行為もする必要ない。

   大きく分けると上記思考の塊が 日本人の特性である
  これを政治・国家のレヴェルから日本経済・あるいは我が業界の商社マンにもあてはめると、
  同じような無責任主義は 順調な経済成長時には問題は表面化しないが
  危機や正念場では 非常な問題を抱えることとなる
  11)主力産業が停滞し、新規産業イノベーションが今求められているが、
     斯様に新規産業の開発は 日本人には向いていない
     前例主義が一番好きなので、
     新規産業なんて誰も今までやったことないので、どうやっていいか判らない
     そんな産業ニーズが将来の人類に起こるとは思えない、思考停止したい
     個々の会社レヴェルでの新規事業・新規客先開発の局面でも、 今まで誰も社内で
     そのようなことをやったことがない、どうやっていいか判らない
     自分が判断し実行しなければならない、それには責任が伴う、だから嫌だ
     というような 思考回路が特質
  22)結果全肯定主義 にては 失敗を全く想定していないので
    日本経済においては 成功体験に拘泥し 打つ手が遅れる
    個々の会社レヴェルでは、例えばクレーム発生したとき、すなわち
    危機の状況には 担当はクレームを想定していないので
    担当は責任取る自覚が欠如して、且つ前例主義で 商売を客観的に受け継いだ
    (上記での導入しただけ)なので 自分はその商売を「決断」していないので
    従い責任を取る覚悟ない。だから 解決策など想定していない
    という思考回路が 蔓延していることとなる

  日本民族の意識構造は、では悪いか・・・ というと
  もう一つの特性、「諦観」、全てをあるがままに受け入れる能力と言い換えてもいいが、
  によって 奇妙なバランスが取れている
  無責任体制ー危機を非想定ーまさかの危機発生ー対策の欠如ー決断の欠如
  により 事態はどんどん悪化するが、 悪化の先には 諦観する国民がいるので
  国家破壊にはならないで済むような 国家体質がある
  諦観により その事態を受容し、その受容からすこしずつまた 好循環を取り戻す
  特性も また日本人の特質である。
  戦後の復興はその象徴であり、経済が破綻しても恐らく
  ギリシャのような暴動も起こらなければ、失業率の上昇、貧困が進んでも
  それを 諦観し「あるがままに受け入れ」 
  無批判的に前へ進む ある意味、力強い国民でもあるかも知れない。
  ただ、このように繁栄を謳歌した国民が もう一度どん底から 諦観して這い上がるという
  プロセスの前に、 前例主義を捨て、決断できる(すなわち責任取れる)国民が
  「結果100%成功想定」を捨て、危機管理能力を身につけたら どんなにか
  将来明るい 国家になるであろう とは容易に想像がつくが・・・
  2012年2月20日 
    
  (肚の人 再考)
   日本人の人格を誇りに思ったと書いたばかりですが、
   他方 今一度13)で書いた 「人間の力量」についても 福島原発の東京電力の対応を
   見るにつけ、トップの決断、危機管理能力の欠如 も 他面の日本人の側面とも
   感じています。福島原発が緊急停止したときに、最善の策は 「覚悟を決めて」
   原発の全面破棄を決断していれば 現在の事態は防げたとの コメントも
   「原発建設関係担当者」のコメントとして 掲載されていました。
   緊急停止の後、事態の深刻さを即断し、破棄を決断さえしていれば、「圧力を減圧し」
   「ホウ酸を大量投入」する荒療治ができたそうですが、破棄せず何とか 再開することを
   優先努力したために このような深刻な事態になったそうです。
   つまりは「何とか現状のまま 怒られないで(国民に)済まそう」「電力足りないことで
   批判を浴びることは 嫌だ」との 事なかれ主義、減点主義 が トップの意志と見ました
   冷静さ・秩序を重んじる 美徳と共に、他方 悪い意味での協調主義、責任回避
   が 時には決定的なダメージを与えてしまう典型的事例でしょう。
   自らの保身、最悪を回避するために己を犠牲にする覚悟の欠如 は 
   その人たちに 運命を任せた大多数の国民が 不幸を背負ってしまう結果となりました
   先日NHKの スペシャルドキュメントで「日本はなぜ戦争に突き進んでしまったか」
   の中でも 官僚機構の意志決定メカニズムが やはり「責任回避」「縄張り意識」
   「先送り主義」であったが故の 戦争突入と位置づけられていました。

   我々は 究極の場面では 人生をかけ、時には生命をかけても 決断しなければ
   ならない瞬間があるわけです。 首相や社長が 輪番制で良い筈はありません
   我々は真の 覚悟ある「肚の人」を トップに据える しっかりした目をもっていなければ
   なりませんね
   2011年3月16日
  (日本人であることを誇りに思う)
   時間の有限性を書いた翌日、東日本は未曾有の大災害に見舞われました
   色々「人間とは何か」について書いてきましたが、
   日本人は きっとこの難局をしっかりとした心構えで乗り切れると信じています。
   世界45カ国以上訪問し、色々な国の政治・経済・文化・人間性に触れてきましたが
   日本人は 世界でも最高峰の 「人格」を有する 誇れる民族と思います。
   まず、これだけの大災害でも 「秩序」が保たれていること自体が、世界から
   尊敬されるでしょう。
   低レヴェルの国民なら もう暴動・略奪が各地で起こっています。
   スーパー・コンビニは 破壊されているでしょう。
   それに 加え「冷静さ」です。 しっかりと「今ここ」の現実を認識し、ある種の自我を
   抑える 大人が多数存在していることです。
   これも世界の非常識な 一般レヴェルの国家からみれば、尊敬に値します。

   自我・エゴ、欲望の権化的人間 に支配されては
   人間が人間たる崇高さが ないと 述べてきましたが、日本人は 疑いなく
   崇高な民族でしょう。
   人生の尊さ、プロ意識、「大人とは何か」「欲望の果てにあるもの」、情と理、
   私は 今の日本では失われていたのでないかと危惧しておりましたが、
   単に本来の日本人が皆持っていたものを単に「忘れていた」だけだったと思います。
   日本人には「生まれながらに仏性あり」でした。
   日本人であることを 誇りに思いましょう。今回皆さんは 日本人であることの
   すばらしさに気づいたと思っています
  2011年3月14日 

      
   (人間のやっていることは欲の葛藤の産物である・酒井法子に思う)
   酒井法子 と 押尾学 が 相次いで覚せい剤で逮捕されました。
   人間がやっていることは 日常生活・仕事・余暇等々 行為として分析すれば数万種類の
   「行為」をしているのですが、それを突き詰めていくと 3種類に分類されるそうです。
   @好きなこと・気に入ったこと Aやるべきこと・生きるために必要なこと
   B惰性でやっていること・マンネリでやっていること
   だそうです。 でも人々はそれを明確に意識することなく 数万種類の「行為」を
   行っています。その行為の選択は、全て人間の欲と その対立する葛藤から
   行為に結びついています。これはどういうことかというと、
   人間は本当は 全ての行為の前に「感情の動き」が0.001秒必ず存在しています。
   一度自分の行為をした後に、その「感情の動き」を自分で観察してみてください。
   人間は本質的に @ばかりをやって生活していきたいのですが、つまり自分の欲を
   100%満たされる生活ですが、@ばかり
   やっていると生活が成り立たないので、感情・欲を理性で抑制しAやBを行っているのです。
   そこには 内面の自分の感情の選択が起こっています。例を挙げましょう。
   ある人が有名大学合格を目指しているとします。
   その人の感情は 「大学に合格したい」という 欲が 強く存在します。
   でも 大学に合格するためには猛勉強をしなければなりません。
   猛勉強は 本来 人間として 「サボりたい」という 欲に相反するものです。
   最大の理想は 両方の欲を満たす「勉強しないで大学に合格すること」ですが、
   それは あり得ないので(それを判断する理性は人間は持っていますから)
   人間は 常に内面で 「合格したい」という欲と 「サボりたい」という欲の葛藤があり、
   まじめに人生を考えている人は 「合格したい」という欲が サボりたいという欲に勝り
   猛勉強という 「やるべきこと」を選択しています。
   で、怠ける誘惑に負けてしまう人は、結果として不十分な勉強しかできずに
   大学受験に失敗します。
   太っている人は 「痩せたい」という欲と 「おいしいものを食べたい」という欲の
   葛藤にいつもさらされています。でも大抵の人間は失敗します。なぜなら
   「食べたい」という欲は 人間の三大欲(食欲・性欲・睡眠欲)で、非常に強い欲だからです。
   人間の最大の欲は「生存欲」です。その次に 上記三大欲があります。
   三大欲を克服することが出来るのに最も簡単なのは 「生存欲」が危険にさらされたときです。
   糖尿病になった人 が 食欲を制御できるのは 糖尿病が進行すると「死」が
   待っているからです。
   肺がんになった人は タバコを容易に止められます。
   肝臓が冒されたひとは 酒を断つことができます。
   それはなぜかと言うと 「死にたくない」という 人間の最大の欲が支配するからです。
   酒井法子は 麻薬に溺れてしまいました。
   麻薬は なぜするかというと (私は分かりませんが) 「何ともいえない享楽の快感の境地」を
   手軽に味わえるのでしょう。
   人間として「快感」を味わうという 最高の@です。最大の欲求です。
   他方、では酒井法子は 他のAやBはなかったのでしょうか。
   麻薬は体を滅ぼす、人生を台無しにする、捕まれば社会的地位を失うという理性は
   絶対にあったはずです。 つまり 「自分の人生を幸せに送りたい」という欲も存在して
   いたはずです。
   酒井法子の心の奥底には 「麻薬」という欲と 「幸せな人生」という欲の葛藤が
   あったはずですが、理性が働かずに 麻薬という巨大な欲に 「幸せな人生」という欲が
   負けてしまったという ことでしょう。
   酒井法子は 逮捕後手記で「私は精神的に弱かった」と述べています。
   すなわち、人間の行為の本質である「欲の葛藤」で 自分が自分に負けてしまったと
   自白しているのでしょう。
   人間で最大の欲は 「生存欲」で、次に「食欲・性欲・睡眠欲」の三大欲、
   麻薬は 三大欲に匹敵するほど 強い誘惑なのでしょう。
   でも結果的に それは 「生存欲」を脅かすほど怖い存在であるわけですが、
   それに気がついてもどうにもならないほど脳が侵され、生死を考えられないほど
   依存されるからこそ、社会が排除すべき
   物質と定義されているのでしょう。つまり最後の自制である「生存欲」コントロールも
   効かない物質だからです。
   皆さんも 一度 自分の内面を観察してみてください。
   「本当の自分の 欲は 何ですか?」と・・・・
   2009年9月7日


 (マイケルジャクソンと小室哲哉)
   商売雑感のところにすでに小室哲哉に関して書きましたが、先週マイケルジャクソンという
   才能がこの世を去りました。小室哲哉も音楽の才能に恵まれ、マイケルも同様で、
   ともに巨万の富を手にした人物で、最後は借金まみれになったことも共通です。
   音楽の才能、非凡さへの賞賛は多くの方々同様、上島も同感していますが、
   ここでは、「使い切れない富を一挙に手にした不幸」について書いてみます。
   人間は一生生きていくためには 最低限、いや普通の生活、いや多少の贅沢を
   する生活をしても せいぜい5億円程度あれば十分でしょう。
   年間1千万 x 50年ですから・・・
   マイケルジャクソンは数百億とも一千億とも言われる富を手に入れ、小室哲哉も
   百億になんなんとする富を手に入れました。そして両者とも借金まみれになりました。
   人間 自分で使い切れない金を手に入れるとどうなるか。
   土地、家、車、グルメ、等々の程度では せいぜいたかが知れています。
   自分を見失わず、理性を保つのは 一分野において非凡でも、難しかったのでしょう。
   理性が失われたのです。
   巨万の富を 使えるのは 「投資」「事業」です。ですから 2人とも事業に邁進しました。
   しかしながら、事業にも才能は必要なわけで、2人が事業にも天賦の才能を備えていた
   わけではなかったのでしょう。マイケルジャクソンが具体的にどのような事業展開を
   したかは詳細不明ですが、さまざまな世界の要人と交際し、ネバーランドという
   家とも遊園地とも言えない広大な施設を所有し、
   ビートルズの版権の半分を獲得したりしていました。思えば、散財のための
   事業ともいえなくもありません。小室は香港での音楽事業を画策しました。
   でも 両者の「取り巻き」は 必ずしもいい人たちではなかったようです。
   小室の散財は 追い詰められて、 破滅・詐欺という犯罪に向かいました。理性が失われ
   たわけです。
   マイケルに待ち受けていたのは、「失望」です。マイケルは 悪い取り巻きに失望し
   精神が追い詰められて、純粋な子供たちと 麻薬・鎮痛剤に向かいました。そして
   それが文字通り命取りとなりました。
   「使い切れない」お金は 精神の安定には 非常に有害でしょう。己を律しなければ
   犯罪や自己破滅をしてしまいます。あるいは狂気に満ちた拡大事業意欲で満たすか・・
   鉄鋼王カーネギーも巨万の富を もてあまし、精神の安定を欠きました。晩年
   カーネギー財団を設立し、慈善事業で 富を社会に還元することで 正気に戻りました。
   ビルゲイツもそれに気づいて、引退し、ゲイツ財団で社会還元をこれからしていくのでしょう。
   「使い切れない」とは、人の一生は限界があるからです。墓に金は持っていけません。
   マイケルの意匠権、版権は 遺族の血みどろの戦いの材料となるでしょう。
   人間の悲しいサガです。  天才マイケルジャクソンに合掌
   2009年6月30日
  
 (小室哲哉と中国マグネ工場)
  最近の出来事として、小室哲哉の逮捕という事件がありました。
  1990年代の絶頂期、日本の高額納税者番付で全国4位を続け、銀行預金は100億円を
  超えるといわれた、「神様」が100億円を使い果たし、10数億円の負債を抱え、5億円の詐欺容疑で
  逮捕されたのです。私は、人間の果てしない欲、あるいは虚無感、目的の喪失への恐怖を感じました。
  このような例は枚挙に暇がないですが、古くは千昌夫、尾崎将司、村上ファンド、ライブドア堀江貴文
  など、頂点を極めた、あるいは極めようとした人物ほど記憶に残ります。
  同時に昨今のマグネシウム工場、アルミニウム工場への中国での過剰投資も、犯罪性はないが、
  人間の欲望の限りなさ、達成感の喪失への恐怖という意味では共通のものを感じました。
  世界需要がせいぜい60万ー70万トンなのに、気づいてみたら、計画を含め400万トン以上の
  設備投資がなされるという驚愕の事態も、無限の欲、達成感への渇望がなせる業です。
  中国のマグネシウム工場もここ1年は特に莫大な利益を得ました。絶頂期の小室哲哉と
  同じです。1995年の小室哲哉のインタビューでは「得たいものはもうない」とか
  今幸せですか?との問いに「このままの状態が続けば・・」と回答していました。
  でも「このままの状態」は続きませんでした。音楽の才能の枯渇もあったかも知れませんが、
  香港への投資で70億損失したのは音楽の才能の枯渇が原因でなく、「達成感の喪失への恐怖」
  から、無限の成長への夢に走ったとみます。
  人間は「そこそこで満足」がなかなかできない動物です。従い、資本主義においては
  大成功まで 突っ走って死ぬか(これはごく一部)。達成感の喪失の恐怖のため、無限の拡大主義
  に走って、最終的には 転落してしまうか(これが大多数)のどちらかでしょう。
  小室哲哉は後者であったのですし、これからのマグネシウム中国工場も大多数が後者と
  なるわけです。
  人間は成功体験を忘れられず、永遠の成功を求めてひたすら突っ走るサガにあるとも言えます。
  タックとしては、今後どの中国工場が生き残るか5年程度、慎重に観察していかなければならない
  と思っています。
  2008年11月5日


第七部:中村天風について
      
  (中村天風 再考察その3=心)
   中村天風のすごさは、心、人間の心とは何かの分析・啓示にあります。
   彼の講演(彼は著作物としてはあまり残していないのです)の言葉
   の数々は 珠玉です、が・・言っていることは(私の理解としては)禅の思想とほとんど同義
   と思います。
   すごいのは、それを 大変わかりやすく 説いているところです。
   彼の言いたいことは下記の言葉に集約されます。
   「せっかく人間として生まれてきたからには、 思いっきり幸せを味わおう。
    確実に誰も いつかは死ぬわけで、どうせなら死ぬまでの時間を 有意義に
   過ごそう。そうして生き抜ければ、それは完全な人生と言える」
   では、その完全な人生を歩むためには・・・ ということで彼は心身統一法
   を人々に説いて聞かせたのです。
   すべては心である。心を理解してそれを鍛えれば 人生を幸福に全うでき
   健康も簡単に得られると 「心の鍛錬の実践法」を 示したことにあると言えましょう。
   仏教も禅も 「悟れば永遠の幸福を得られる」と 言っています。で・・ 悟れば
   本当にそういう境地になるでしょう。 しかし 万人がわかる実践法を 示している
   わけではありません。 ただただ「悟れ」と いうのです
   で・・・悟ったかどうかは  以心伝心、師から認められ、経典には書いていない
   (口伝外)なわけです。 
   少々脱線しました。  心の話に戻ります。
   禅(仏教)でも心の働きを 色受想行識 という表現を使いますが
   天風は その概念を  肉性心(物質心、植物心、動物心)と 心性心(理性心、霊性心)
   という言葉を使って 「ほぼ同じ心の動き」を説明しています。
   仏教では 貪瞋痴を 心の3悪として戒めますが、 天風も 「感情情念」の中の
   「消極的動物心」と表現し、 「焦熱地獄8万6千の煩悩」と 猛烈に非難しています。
   仏教では 色を受け取り(受) 思う(想)までは  OKであるが
   それを自分の感情に照らし合わせて比較検討し(行) 
   心が動揺したり影響され、心がかき乱される(識=貪瞋痴感情が生じる)
   ことになる前に 対処しろと言っていますが、 天風も言っていることは
   同じです。表現は かなり独特です。 そのまま引用します(講演ですから口語体です)
  「心というものは厳粛に言うと、生きるために使うので、使われるためにあるんじゃないんだ
   から、これを忘れちゃだめだよ。心に使われたら心配も煩悩も、もうとめどなく心の中を
   暗くするだけだ。同じ物事に接触してる場合でも、その接触してるものと心との関係が
   その心がその接触しているものを対象としていない、自分自身の生命を使いだしたら
   もうおしまいだから。・・・ いままでなかったようなノイローゼだとか神経衰弱だなんて
   愚にもつかない病が、煩悶や悩みや悲観や苦労やあるいは怒りや恐れという
   さっきいった消極的感情どもを、あれこれと心に感じて生きている人がいかに多いか
   見てみりゃすぐわかる。これすなわち 心に使われているから。」
   どうですか? 理解していただけましたか?
   つまりは 仏教では 行と識は 貪瞋痴に行く方向で心を使うととんでもないことに
  なると教えますが、天風は 消極的感情に 心を支配されるな!! という表現で
   仏教と同義の意味を諭しています。
  さて 長くなりました。この続きは後日 「加筆」します。
    
  天風は  こんな文章も 円相として ものしてます。
  「ひとのよろこび を わがよろこびとなすこころこそ、まことのひとのこころである」
   (全部ひらがな)
   まさに禅ですよね。
   2016年5月30日
   
  (中村天風 再考察その2=多くの箴言)
    35)を書いてから 1か月と10日ほど経過しました。中村天風の著作(正確には講演を
    文章化して体系化したもの)を 5-6冊 読破してみました。いやはや大した人物です。
   改めて彼のすごさを再認識しました。
   彼の人物像を表現すると
    宗教家でも哲学者でも心理学者でも養生訓を述べる医者でも なく
    それらを全て 兼ね備えた  「人生の達人」という表現が 最適でしょう。
   彼は奔馬性結核を患い、生死をさまよった中で、インドヒマラヤの山奥でのヨガの修行から
   悟りを啓いたのですが、彼は「悟りとは自分の心が真理を感じた時の心の状態を言う」
   と記しています。
   真理を感じた時の心の状態は  彼曰く、簡単に得られる、とのこと。
   しかし ほとんどの人間は まるで頭の上から帽子をかぶせられているが如く、きれいな心の
   上に雑念妄念が覆いかぶさっているために、真理の中に生きながら、真理を悟ることが
   できない と 言っています。
   これは 禅の表現の 「月はそこにある。 ただ曇っているから見えないだけだ。
   また いくら水面に映った月を 捉えようとしても そこには水があるだけだ。
   月そのものを 見なさい」ということと 同じです。
   ただ 天風は  悟りに至る方法論 を 具体的に示している点で、釈迦とも達磨とも
   道元とも 強く異なるわけです。
   すなわち how to sayや how to showは 誰でも示しているが、how to doは
   天風が 初めてである・・と。
   それが 何と言っても すごい!!!
   その方法論は
   35)でも 上げている
   *観念要素の更改
   *積極精神の養成
   *神経反射の調節
    ということですが、  
   「せっかくこの世に生まれてきたのだから、思いっきり生きなければもったいないではないか!!」
   そのためには  健康で 煩悶をせず、心身ともに豊かになろう  !!
   との 極めてわかりやすい 啓示です。

   悶々とするな!! 悶々としているその心は健康に悪い!! その悶々としている時間は
   無駄でもったいない!!  だから 心をいつも 積極的に維持しろ!!
   箴言1
   「人生の出来事に対応する其の精神態度が 積極か消極かということで、その結論の
   正否が決定する」
   俺はもうだめだ・・ と思えば望み通り ダメな人生を送れ、 「俺は絶対成功してやる」
   「俺の病気は絶対完治できる」 と強く思っていればその精神作用が 人生の運命を好転
   させ、はつらつと活きている場合が多い・・と看破する。
   為せば成る、為さねば成らぬ何事も、 成らぬは人の為さぬなりけり=上杉鷹山=と
   同じですね。
   僕自身は 仕事も 趣味(ゴルフ、ジャズ)も  時に弱気(嫌気?)になる時があります
   まだまだ 天風から お叱りの言葉をいただきそうです。
   絶対的積極  と対極には 煩悶、煩悩、悲観、苦労、怒り、恐れ、陰湿という言葉が
   並ぶそうです。見るからに 「何事も成らぬ」になりそうですね。。。

   次回は 彼の健康論を 語りたいと思います

    2016年5月10日、5月16日加筆   
  (中村天風 再考察その1)
   2003年5月からこの随筆を書きだして、早いものでもう13年です。
   最初のころの随筆を読んでみると 僕の心境としては、仕事にまい進してきた自分を 
   もう一度見つめなおしたいとの思いで
   人生や人生観を主に禅思想を通して考えていたようです。
   ところで皆さん、中村天風はご存知でしょうか?
   僕も2003年ー2005年、禅思想を勉強していたころ(今でも座禅していますが)に中村天風を
   知ったのですが、 最近になって 再度その教え「心身統一法」を再勉強してみて
   彼の「心」へのアプローチに共感するところが多い自分を発見しました。
   2005年当時の自分は もうちょっと禅的な考えに共鳴していて、彼の心身統一法は
   頭では理解を示しえても、いざ自分が実践するとなるとかなり隔たり大きい印象でした。
   というのも、彼は 一言でいえば 「超積極主義者」で、 運がないときでも病で不調なときでも
   常に心は積極性を保ちなさい!!というのが 彼の心身統一法の教えです。
   そう・・・超積極主義と言えば現代では 松岡修造 が有名ですね。 「毎日修造」のカレンダーが
   百万部を超える勢いで売れているそうですが、 中村天風は 実はその
   松岡修造にも多大な影響を与えている人物です。松岡修造は 中村天風の著作物は
   ほぼ全部所有して熟読しているそうです。
   実は、中村天風の薫陶を受けた有名人は 数知れず
   直接指導を受けた明治・大正・昭和の偉人たちでも
   松下幸之助、ロックフェラー、双葉山、東郷平八郎、稲森和夫、 広岡達朗、永守重信
   尾崎行雄など 錚々たる名前が連なっています。
   ここでは中村天風の 人物像は省略しますが、 その教えは
   「どうやって心を本来の霊魂である自分自身が支配して、 真の幸福を掴むか」
   でありますが、それはまさに 禅で問う「本来の自己」「祖師何故西来したか」
   「父母生まれるまえの自分」を悟るための実践的方法論 であります。
   
   彼の教えは
   *観念要素の更改
   *積極精神の養成
   *神経反射の調節
   によって  真の幸福に満ちた人生を得ることができると  言っています。

   ここで その3つを詳しく述べると、随筆が 5千語ー1万語くらいのスペースに
   なってしまいますので、まずは  もしご興味あれば
   彼の著作である 「幸福なる人生」あるいは「真人生の探究」をご一読ください
   ではなぜ、上島は今・・中村天風なのか? ですが、
   2005年当時から僕も人生観が変化してきたのでしょう。 なんだかんだと言って
   いずれ死ぬまでの人生・・・ 思い悩んでもしょうがない。全てを受け入れて
   すべてを前向きに考えるべき。それが最高の幸せ  という彼の哲学に
   共鳴してきたからでしょう。
   天風については もう少し 書いてみたいと思いますので
   この章は 「その1」とします

   2016年3月29日


第八部:一般・趣味
   

  (ジャズアドリブについて)
  11)でも書きましたが ジャズセッションでアドリブをするのですが、非常にうまく「気持ちいい」演奏が
  出来た場合と、かなりひどい出来の場合があり、ひどいときは落ち込みます。アドリブって何だろう
  どうして開放を味わうほど気持ちいいときと、違和感に苛まれるときがあるのだろう、その違いは
  どこからくるのだろうか、と考えていたときハタと気がつき、セッション練習会HPに下記を
  書き込みました。
  (引用)

昨日の先生方とのセッション練習会で、教則本が言っていることが、下手なりに少し実感してきました。アドリブって 英語のadd(加える)とlive(命、活力)の意味でしょう。「曲に命を吹き込む」ことかも知れません。コードもモードも飽くまで「曲にどうやったら命を与えられるか」の解釈を助けてくれるもの(手段)で、それは決して目的ではないということです。我々の練習曲は何回も練習して下手なりに「曲のイメージ」を描きつつアドリブを模索していますが、初見とかでなぜあまり上手くいかないかは基本的に「技術的未熟」があるのですが、曲の解釈もしていないで、「命を吹き込む」ことは不可能だからでしょう。赤本も とにかく「歌え、感じろ」と言っていますのはそのことでしょう。ましてやテーマも吹けない曲は解釈以前の問題で、小生などは吹く資格もないでしょう。たとえコードが分かっても、それはその曲のアドリブ(命を吹き込む)でなく、単なるコード演奏(別の音楽)でしょうから。以上駄文でした。上島

追記 勿論アドリブの英語本来はADLIBで、AD前置詞とLIBERAL、字儀にとらわれない、自由に、の意味ですが、小生は意訳しました。あしからず

  (引用終わり)
 絵を描くのと同じように、気持ちが入っている作品と 型通りに描いた絵とは 訴えるものが違うように
  きっとジャズも一種の芸術で そのような違いがでるのでしょう
  2007年5月29日


  (心の開放とジャズ)
  一部のお読みいただいている方から「たまには軽いものも書いてみたら」とのご指摘を
  いただきましたので、小生の趣味にしているジャズ演奏と心の開放(ほうら!また堅苦しくなった)
  について書きます。
  小生は最近サックスを習い始めました。中学生時代のブラスバンド以来全く封印していたサックス
  ですから 35年ぶりとなります。また何と自分たちのセッショングループも立ち上げてしまいました。
  というのも、サックスの演奏会が年2−3回あるのですが、プロのピアノトリオをバックにジャズを
  奏でる幸せにめぐり合え、「ジャズってなんて面白いのか」と目覚めてしまったからです。
  小生の偏った意見ですが、ジャズは聴くものでなく、絶対に演奏するものです。昔からジャズは
  聴くのも好きだったですが、ジャズ評論家とかジャズ愛好家とか特にジャズ喫茶のオヤジなどは
  「小難しい理論と知ったかぶり」をかざしながら、ジャズをことさら難しい音楽に仕上げていますが、
  ある種小生はそれに対する嫌悪感すら抱いていました。で、セッションを実際にやってみると
  ジャズって「こんなに楽しいのか!」との発見でした。
  ジャズは英語と同じです。そして日本人がなぜ英語がしゃべれないかとジャズに対する日本人の
  姿勢は見事に一致していることに気づきました。
  英語が話せるようになるためには 3つ必要です。
  1つは、英語のシャワーを浴びること、とにかくいい英語、native speakerの英語を聴きまくる。
  2つ目は、それをとにかく喋ってみる。間違ってもいいから喋りまくる。
  3つ目は 「度胸」と「素直さ」です。恥じらいを捨てて、聴きまくり、喋りまくる
  それが英語の上達のコツです。
  日本人は その全てが苦手です。まず完璧な文法を目指し、一回日本語に置き換えてから
  英語に頭の中で訳し返し、そしてたどたどしく喋る。自分が喋れないこと(あたりまえです。初心者です
  から!)を必要以上に恥ずかしがる。で ますます喋れなくなるの悪循環です。
  ジャズを習い始めて、それを思い出しています。サックスの先生ですら、まずコードを完璧にして
  変化をつけて、ドリアンモードに変換して、ブルーノートはどこら辺で入れて・・・など まるで
  一回日本語に変換し、文法をチェックしている「喋れない高校の英語教師」みたいです。
  これで「楽しい」はずありませんよね。自然な演奏ができるはずありませんよね。心から
  喜びを表現できるはずありませんよね。セッションのメンバーは皆何か仕事を抱えています。
  つまり「何かしなければならない」束縛感を共有していますが、ジャズは「束縛」を最も嫌う音楽
  ですので、それに強く惹かれていますし、上記の「知ったかぶりジャズ評論家」などは自ら
  ジャズを束縛したものにしてしまっています。これは駄目です。つまらないです。
  小生のセッショングループの方向性も、それを反面教師と思い、
  ジャズもとにかく喋ることが大事と思って、小生のセッショングループはその「無謀さ」を売りにして
  います。そして 痛めつけられるほど「間違って」反省して で、ジャズとは何かを習得しています。
  ジャズは 心の自由、心の開放がなければ全然 うまくなりません。またフレーズが出てきません。
  そこに仕掛けが感じられれば、その瞬間「真のジャズ」ではありません。
  中学生の英語のレヴェルであれば たとえ400個の単語しか知らなければ、400個で演奏すれば
  いいのではないかと思います。演奏して聴いて そして徐々に単語を増やす(自然なフレーズ)
  この作業の繰り返しでしょう。
 マイルスデーヴィスは たぶん英語で言えば 5万語のボギャブラリーを持っている英語の達人ですが
  その人が take,have, putなどのシンプルな英語を喋っているのですけれども、それが非常に
  上手な英語に聞こえるのは 心がコモッタ話し方をしているからでしょう。
  2007年5月7日


(中国商売雑感)
中国との商売に関しての戯言(2003年2月作成)
上島として三井物産時代での約8年間、及びタックトレーディングとしてやってきた8年間の合計16年間の中国との関わりから、お客様である需要家の皆様へ「中国」を考えるための一助になればと思い、下記する次第です。非鉄金属原料輸入商売を出発として、現在では2つの投資事業、アルミホイールなどの製品も手がけるようになり、さまざまな局面を体験しておりますが、需要家の皆様は急激な発展を遂げている中国に対し、まだある種のとまどい、不安、疑いをお持ちかと思います。古くは、金属シリコンなどでのクレーム、また相場高騰の際のnon-delivery、契約概念の薄さ、日本との品質管理のあまりの違い、介在する公司の未熟さ無責任さ、などなど枚挙にいとまがないくらいです。しかしながら、2003年の現在、巨大なマーケットに育ち、豊富な鉱物資源に恵まれ、信じられない価格競争力を目のあたりにしている日本人の一人として今後の日本経済は中国なしでは語れないのも、私が言うまでもなく事実であります。タックトレーディングは中国の未熟さをいかに克服し、需要家の皆様に中国の「よい点」のみをスムースに伝えるため、日夜努力していますが、これからますます中国原料、製品を当社需要家の皆様にご使用いただくため中国との商売でのエッセンスを16年の経験で述べてみたいと思います。
1)会社を信用してはならない むしろ個人を信用すること
日本でも商売では人と人の結びつきが重要ですが、中国では想像以上に人次第で商売が左右されます。例えば、マグネシウムを20mt契約し、契約先が五金公司北京であったとします。(例えですが)五金は一流の輸出商社ですが、その場合でも「どこのマグネシウム工場であるか」「工場長はだれか」「工場と五金の関係はどうか」「五金の担当は工場のだれと話したか」「契約の存在は口頭か文書か」「その工場から定期的に買っているか」などが実はその輸入商社自身が把握している必要があります。もしそのどれも関係が希薄であれば、実はそれは契約として本当に存在しているか疑わしいのが実際です。もし相場が高騰した場合、実際に商品を出荷する工場が突然non-deliveryを表明することはたびたびあります。実際問題、日本の商社がnon-deliveryを理由として訴訟することは時間とコストが膨大にかかりますので、多くの例では「泣く泣く上昇した相場で穴埋め」するのが一般的に残念ながらなっております。しかし、それは 中国にとっては「やっぱり所詮中国は品位なき国家である」との悪い評判につながりますし、日本にとっても「やっぱり中国は怖い」との印象をもつのみで、なにも生産的結果は生まれてきません。また、首尾よく出荷されても、品質クレームが起きたときには問題の解決にも多大な費用と労力がかかります。現在、マグネシウム、希土類、など合計8−9品種の商品を取り扱わさせて頂いておりますが、結局は、「人間と人間の個性のぶつかり合い」であり、中国人を認め、日本人を認めてもらうこと、人間としての交流があれば問題解決ができると信じております。中国人は決して「会社」では動きません。「人間」で動きます。日本人も人間関係を大事にしますが、「会社」を非常に重んじますので、「会社」の面子がしばしば優先しますが、中国では、会社は2の次です。極端な話、例えば、金属シリコンの担当がA社からB社へ移動したら、その商売自体が突然 B社との取引に簡単に変更します。(もちろんB社の信用力をまた調査しなければなりませんが)
結論)会社ではなく個人と商売する
従い、こんどは、
2)個人の人間性の見極め  となります。これは、非常に難しい問題ですが、中国と日本というよりも、商売での根幹にもいえることとは思います。人間、誰しも「儲けたい」「金持ちになりたい」との「物質的動機」がありますが、最近の中国では特に「飛躍的高度成長」の中で「拝金主義」が横行し、とにかく自分のことしか考えないやからも確かに存在しますが、このような人物はできるだけ早期に見極め、はやめに「さよなら」しなければなりません。経済活動はある種人間性をゆがめることとなっておりますが(残念ですが)現在まで長く商売をつづけている中国の輸出業者、工場は、彼らの「儲けたい」心とともに、日本に「いいものを届けたい」(つまり日本にもなにか尽くしたい)との心が感じられます。慈善事業ではないのですから、当然そこには利潤追求が見えますが、それがあまりにも「日本はどうでもよい」「中国さえ儲かればよい」との姿勢では結局、その人物はその業界から消えていってしまっております。当社では、お客様のニーズを最優先するので、中国に対しては、「ここまでやるのか」とのある種「驚き」を与えながら商売しておりますが、出張にて上島が説明するときも、また当社北京事務所を通じて強行に説得するときも「つねに自分を客先の立場において考えなさい」と言っております。「もし、自分が客であれば、自分の商品を心底買いたいと思いますか」「自分の商品は価格以外に自慢できる点はありますか」との問いかけを行ってみます。そうすれば、大抵理解し、改善に向け、前進することとなります。
結論)個人との深い交流を目指す   
そして、商売の完成とはなにか といえば、
3)商売の喜び を共有する
貿易に限らず、皆様のような生産者、いやありとあらゆる社会人は仕事に人生の大半を費やしておりますが、(私もそうです)人生の大半を費やすその時間をだれも無味乾燥なものにしたいと願っているものはいないはずです。ラーメン屋の主人が一番幸せを感ずるのは「儲けた」ことではなく客から「おいしかった。又来るよ」の一言を聞いたときであるように、私も皆様から「いいものを常に供給してくれてありがとう。今後も宜しく」と言われたときが、一番仕事の充実感を感じます。(もちろん利潤追求を忘れることはありませんが)中国の工場もまさにそうです。皆様の厳しい要求(納期、品質、価格その他)を守らせ、厳しく指導し、それを長年遵守してきた工場には「あなたの工場の製品は このように評価され、このように感謝されています」とFEED BACKし、「あなたの製品はこれからも必要とされています」と伝えます。それが、工場長には強く強く印象として残り、タックの日本のお客様の本当の意図がここでようやく伝わることとなります。この段階までいけば、もはやNON-DELIVERY, 品質クレーム、納期遅れ、などはほとんど起こらないこととなります。なにか、商売論ではなく、人生論となりましたが、タックの商売事情をすこしでも理解いただけたら幸甚です
上島 隆    
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